つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2002) 1: 40.

基礎研究の社会還元と情報発信

藤本 弘一 (三菱化学生命科学研究所 情報発信室)

 基礎研究の社会的位置づけが深く問われるようになってきました。これからの研究者が対応すべき視点について、 民間研究所で基礎研究を続けてきた立場で感じていることを述べさせていただきます。 

 生物現象の奥深さに魅せられ、基礎研究の道に入りました。しかし、これが何の役に立つか?といった質問に対 して自信を持って答えを出した試しはありません。三菱化学生命科学研究所の初代所長・江上不二夫博士は、研究所設立にあたり生命科学の在り方を3段階に分けて考えました。第一は、生命現象の普遍性を問う、第二は、ヒトを含めた高等動物に特有な生命現象に焦点を絞る、そして第三は、それらの成果を人類の福祉に役立てる。研究所 は、この理念に基づき30年間の歴史を歩んできました。入所以来、社会還元を具体的に考える時代は、いつのこと かと疑問に思ってきましたが、バブル経済の崩壊後、事情は少しずつ変化して行くのを感じていました。この事情は、経済状況の変化に余儀なくされる企業の中にあってのことと理解していましたが、最近は、そのような狭い現象ではなく、歴史の流れの中で、生物科学が被るに至った必然性かもしれないと考えています。政府はバイオを基 幹産業と位置づけ、年々予算投資を続けています。産官学の連携研究が叫ばれ、バイオの分野で大学発のベンチャー ビジネスが立ち上がるなど、基礎科学と応用科学の接点は密接になってきました。江上博士の指摘された第三段階 の中に置かれてきたと言えます。

 この流れの原動力は、ゲノムプロジェクトの成果に基盤を置いたゲノム科学の進展に依るところが大きいと思います。また、経済建て直しとして科学技術立国創生を目指した一連の施策が、そうさせています。最近は、基礎研 究においても特許取得を検討するようになっています。特許も論文と同等に、研究者の実績の一つに考えられるようになりました。日本がバイオ産業において経済的に諸外国に太刀打ちしていくためには、特許戦略に対抗していくことを余儀なくされてきたわけです。特許なんて応用科学分野の話と思っていたのが、極めて身近な問題となっています。

 応用科学は生産性をともなっており、成果が「もの」として見えて来ます。基礎科学では、「ロマン」を求めてい るとか言ってフィロソフィーを売り物にしてきました。昔のように、研究に没頭している姿に対して、人類の知的 好奇心を代弁する貴重な存在ととらえられた時代と異なり、不況の時代に目立った予算が基礎研究に投じられるようになった今では、社会の目も変わってきています。企業の中にあっての基礎研究はもちろん、国民の資産としての大学にも説明責任が問われ、成果の評価を具現化しなければならなくなってきました。もともと見えないもので すから、評価を定量化することは、簡単ではありません。しかし、基礎研究に莫大な資金調達が必要になって来ている以上、このハードルを越えることが要求されています。

 ロマンを定量化するには、情報処理が必要ではないでしょうか。応用科学においても、プロダクトが一般社会の目に見える形で表れる前には、何度と無く改良が為されているはずです。基礎科学においても、社会にその成果を 表すためには、研究者の発見した情報を加工する必要があります。生の情報は、学会では理解されても社会では言葉になっていないことが多いと思います。ここに、情報発信の意義があります。基礎科学で表された情報に処理を 加え、新たな形で発信してこそ、その内容が理解されて来るはずです。この処理には、研究者自らが参画しなければなりません。生の言語を理解できないで、翻訳処理は施せません。

 日本の社会人は、欧米に比較して科学に対する興味が低いという統計結果が出ているそうです。これは、興味がないと言うよりも、情報発信の欠落に依ることの方が大きいのではないでしょうか。知りたくても、情報を入手できない状態かもしれません。メディアを通じた情報化の時代ですが、科学ジャーナリズムや芸術などの表現の世界 に、もっと科学者が飛び出していくべきです。それなりのプロ集団の育成が、要求されているのかもしれません。真 のロマンに対して、その情報を噛み砕いて情報発信できる一流の科学者が必要になり、基礎研究者に多様性が求め られています。科学技術立国として歩み出すためには、新たな人材育成なしには成り立たないのではないでしょう か。

Communicated by Jun-Ichi Hayashi, Received August 5, 2002.

©2002 筑波大学生物学類