生物教師から教育行政へ

実験室から教壇へ

　筑波大学大学院が発足したのは1975年４月でしたが、私は東京教育大学生物学科動物学専攻を卒業した後、筑波大学大学院博士課程生物科学専攻科の第１期生として入学しました。動物系統分類学に最も興味があり、杉田博昭先生、宍倉文夫先生（日本大学）、この３月に退官された牧岡俊樹先生らのおられた関口研究室に入りました。系統 分類学で主流だった形態学的な方法では限界があると考え、この３月に退官された平林民雄先生から電気泳動など のテクニックを教わり、カブトガニの筋肉を使って比較生化学的に無脊椎動物の系統関係を探るというのを研究テー マとしました。 　ところが２年後、高校の教師となりました。研究が行き詰まったとか、大学に居づらくなったとか、そういった理由ではありません。当時、人の生き方についていろいろと考えることがあり、自分の人生を何にかけるかと悩み、もともと自分がやりたかった教師になろうと改めて確認したからです。５年制の博士課程を２年で出てしまったわ けでしたが、当時研究科長であった渡邉良雄先生のご尽力で、理学修士を取得することができました。自分が悩み、考えた末のことであったのですが、大学院を途中でやめるにあたって、渡邉先生をはじめ、関口先生、平林先生、そ して同級生で親友の沼田治君（現在教授）にはずいぶん心配していただき、迷惑をかけてしまいました。

　幸い、東京都の教員採用試験に合格し、最初に勤めた東京都立江戸川高校で５年、都立蒲田高校で12年、生物と化学を教えました。着任したばかりの頃はつい張り切りすぎて、高度なことまで一方的に教え込み、「先生の授業は大学の授業みたい。」と生徒に言われました。初めて担任したクラスも私が自分の理想とするホームルームを押しつ けようとして生徒の猛烈な反発にあい、ずいぶん悩みました。自分に幅やゆとりが無く、一生懸命になればなるほ ど生徒との亀裂は深まってしまったのです。このように、最初は悲惨なものでした。しかし、多かれ少なかれ、誰でも経験することではないでしょうか。そこでどれだけ悩み、自己変革できるかが大切であって、最初からうまく いくことはまれなことだと思います。

生物教師の仲間とともに

　私の教員生活、そして現在も支えになっているのは、同じ教科を担当している先生方との横のつながりです。東京都の生物教師の研究団体は「東京都生物教育研究会」、略して「都生研」といいます。制度上は都立、国立、私立の高等学校のすべての生物担当教師が自動的に会員になっていますが、アクティブなメンバーは１割程度でしょう か。

　教師になって２年目、当時都生研の実質的リーダーであった斉　正子先生（都立大学付属高校）からガラパゴス への研修旅行に誘われました。当時、かなりな高額でしたが、生物を教える者なら一度は訪れてみたい進化論のふるさと、ぜひ連れて行って下さいと返事しました。参加した教師は16人。ガラパゴスの生物たちとの出会いも貴重 な経験でしたが、それにもまして、このガラパゴス研修旅行に参加した、斉先生を中心としたメンバーはその後も 勉強会を定期的に開き、交流を深めていきました。

　斉先生はいつも、「生徒に実際の生物に接することによって学ばせることこそ何より大切」とおっしゃっていまし た。実感を伴わない術語などを暗記することで生物を学んだ気にさせたら不幸です。実物に触れることによって生命現象のすばらしさ、精妙さを知ることこそ生物教育の命です。また、何よりも教師自身が本物を見、最先端の研 究の面白さに常に触れていなければ、生徒に学ぶことの喜びを伝えることはできません。私たちは斉先生を中心と して、全都の生物の先生方に呼びかけ、自主的に研修会を開くようになりました。例えば現在東京大学におられる浅島　誠先生を講師に招いてイモリの発生の実習と講義を企画したところ、日曜日で、しかも実費を取ったのにも かかわらず50名以上の参加者がありました。もう20年近く前になりますが、生物の先生方は本当に熱心でした。

　また、都生研では研修だけではなく、授業で使う教材生物を飼育・培養し互いに提供しあうシステムができていました。アメーバやゾウリムシをそれぞれの教師が学校で培養しようとしても非常に大変であり、購入するとしたら高価でとても学校の予算ではまかなえません。そこで、各先生が自分の得意な生物の飼育・培養を分担し、必要 なときに融通しあうようになりました。このシステムは生物教師だからこそ必要性に迫られてできたものですが、教材生物の提供にとどまらず、都立・国立・私立という枠を超えて助け合えるような人的関係ができたという点で、非常にすばらしいものであると思います。 　都立高校の教師には、数年前までいわゆる研修日というのがありました。時間割をやりくりして授業のない曜日 をつくり、自宅等で教材の研究に充てることが認められていたのです。1986年から、都生研では、この研修日を有 効に使おうと、同じ曜日に研修をする生物教師のメンバーで、目黒にあった都立教育研究所（現在は教職員研修セ ンター）生物研究室を中心として、互いに得意な実験のノウハウを教えあったり、授業の工夫などを紹介しあった りする研修会を開くようになりました。この研修会は５年ほど続きましたが、日本で他に例のない画期的な試みで あったと思います。研修日を実質的に休日にしている教師が少なくないという都民の批判に耐えられず、学校週五 日制の実施とともに研修日は無くなりましたが、都生研のこのような試みが他の教科にも広がっていれば、都民に批判されるようなこともなかったのではないかと悔やまれます。

都立教育研究所生物研究室の指導主事として

　都生研の研修の本拠地は、都立教育研究所の生物研究室でした。これまで述べてきた都生研の活動は、都立教育研究所の指導主事によって支えられてきました。30代も半ばとなり、教職経験年数が10年を超えた頃、そろそろこれまでの恩を返さなければいけないと思い始め、指導主事の任用試験を受け、３年目に合格しました。幸い、あこがれの都立教育研究所科学研究部生物研究室の指導主事を命ぜられました。

　私が着任した頃の都立教育研究所科学研究部は、全国の理科教育センター（理科教育に関する研究・研修を行う 機関）の本部が置かれていました。その頃影響力は落ちていたものの、私にとっては全国の理科教育のメッカとしての誇りをもってがんばってきたつもりです。生物研究室では、それまでに培った人的なつながりを通して、考えうる最高の講師陣による、よりすぐった研修メニューを企画するとともに、多種類の教材生物を飼育・培養し、必要な先生方に差し上げていました。研究室のニューズレターも発行し、都生研の協力を得て都内全部の高校に配布 しました。

　しかし、このときすでに、東京都教育委員会の中では組織替えの動きが起こっていました。そしてその第一弾と して、都立教育研究所の組織の再編成が行われ、科学研究部は無くなり教科教育部に統合されてしまったのです。 　1998年、科学研究部生物研究室が無くなった後、都立教育研究所の教科教育部で、「総合的な学習の時間」と、小学校低学年の生活科を担当することになりました。生活科の授業はおろか、小学校低学年の授業をほとんど見たことさえなかった私にとって、小学校を訪問して研究授業の指導をすることはきわめて厳しいことでした。書店に行って片端から生活科や「総合的な学習の時間」に関する書物を買いあさり、懸命に読みまくりました。そして何とか、研究授業の講師という大役を果たすことができました。このことで、生物学というベースは保ちつつ、自分自身の守備範囲を大きく広げられたように思います。

現在そしてこれから

　東京都教育委員会の組織替えはさらに進み、2001年、都立教育研究所が教職員研修センターとなりました。そこでは、教科の研究や研修のウェイトはきわめて少なくなり、学校経営や教育課題などの研修が主となりました。

　私は都庁に異動になりました。現在も都庁で、都立高等学校入学者選抜制度などにかかわる仕事をしています。書類作成や電話対応の毎日です。高校入試については、今年、大きな動きがありました。昨年度までは中学校の評価 は相対評価（５、４、３、２、１の割合が何％と定まっている）だったのですが、今年度から全国的に絶対評価（学習指導要領の目標に基づく評価基準をどれだけ達成できたかにより５、４、３、２、１をつけるので、それぞれの割合は定まっていない）に改められました。それに伴い、中学校の成績を記載した調査書（いわゆる内申書）で絶対評価を使うかどうかが新聞紙上などでも時々話題になっています。東京都ではいち早く絶対評価の使用を表明し、各方面からのさまざまな反響がありました。絶対評価だけでなく、さまざまな入試制度改革を東京都では行ってき ています。全国から注目されているだけに、誤りは許されないという緊張感が常にあり、厳しい仕事です。もちろ ん、仕事の上では生物や理科などにかかわることは全くできません。

　このような忙しい中にあっても、自分のアイデンティティとしての生物教育、環境教育、情報教育とのかかわりを私的な時間の中で守っていきたいと思います。私は日本生物教育学会（都生研やその全国組織である日本生物教育会とは別の組織で、現場の教員の他、教員養成系大学の教官や学生が多い）、日本環境教育学会、教育工学会、日本理科教育学会などに属し、休日なども、時間があれば学会や講演会などに出かけています。ビオトープ管理士の資格も取得しました。また、日本生物教育学会では、学会のウェブページ担当として、ネット上で全国の生物教育関係者のために情報提供など役立てるよう努めています。

日本生物教育学会ウェブページ： http://homepage2.nifty.com/biol_ed/

　指導主事のほとんどは遅かれ早かれ校長や教頭として学校に戻るのですが、私はできたら、このような経験を生かし、残された時間を全国レベルで理科（生物）教育のために使いたいと思っています。具体的には教員養成系の大学の教官などです。たいへん困難であることは承知していますが、何とか実現したいと思います。