つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2002) 1: 48.

退職教師の独り言

百瀬 忠征 (元 東京都立高校教諭)

 私は長野県出身で、高校の生物の教師になりたくて、1961年4月に東京教育大学理学部・植物学専攻に入学し、1965 年3月に卒業した。

教育実習

 4年時の教育実習は、茗荷谷の付属高校だった。指導教官の長谷川三郎先生にお願いして、予定期日の1週間前か ら授業を参観させてもらい、指導案などについての指導を受けた。授業前日には指導案と、準備のために調べたノー トを提出させられる。授業が終り、生徒の質問が終ってホットしていると、先生がニコニコしながら、提出したノー トに抜けていたところの質問をする。生徒の前で、しどろもどろで答えたことが、何回かあった。なんでこんなにい じめられるのかと思ったが、実習最後に、「教師になると、研究授業でも君の悪い点を指摘してくれる教師はいないだ ろう。良く頑張った」と言われた。当時の指導案は、私の教師としての原点として大切に保存し、実習生に必ず見せ てきた。

都立高校の変遷

 卒業した1965年の4月から、東京都立高校の教師として採用され、以来37年間の教師生活を送り、今年(2002年 3月)退職となった。

 私が都立高校の教師になった頃は、高校の増設が始まり、学校群制度が始まった。その後、この学校群制度が見直 されて単独選抜になったが、裏では教師の強制異動が導入され、各学校から名物教師が姿を消して行った。そうこう しているうちに、生徒数の減少から学校の統廃合が始まった。そして、「日の丸君が代」が教育現場に入ってきた。その頃から事態は急変し、教育界にも市場経済の論理に沿った「人事考課」が導入され、都民に開かれた学校と、管理職のリーダーシップが強調されるようになった。そして2001年、都立高校内で4校の受験特別校が指定された。今、 都立高校はこぞって、予備校化の方向に大きく動き始めた。来年度からは学区制もなくなる。

変遷の一要因

 時代の要請を強く受ける教育の世界ではあるが、特に「日の丸君が世」が導入されてからの変化は、私にとって耐えがたい変化だった。何が耐えられなかったか・・・・それは一言で言えば、現場が無視されたことだった。教師の組織内に中間管理職を導入して階層化し、教師をがんじがらめにして行政の思うままに管理する・・・・・こんなことになるとは思いもよらない改悪だった。この激変がなぜ起こりえたのか?ある時同僚が面白い事を言った。「茗渓閥の消滅と、時がみごとに一致しているんだよ」と・・・・。彼は茗渓ではなかったが、一面の真理をついているのではないかと感じた。

 私は学閥が嫌いで、管理職の道は選ばなかったが、思えば茗渓にも素晴らしい人物がいて、教育委員会を始め多くの管理職の座を占めていた。今思うと、多くの先輩達はなかなかの気骨をもち、教育現場を大切にする気概をもって いたように思う。いわゆる教師としての職人気質とでも言おうか、それが茗渓の伝統だったのかもしれない。それを 我々が引き継げなかったことを、一面では申し訳ないとも思っている。

後輩諸君へ

 良き先輩達の世話になりながら、職場は新設校から始まり、内地留学・開設要員と経験し、後半はいわゆる名門校を経験させてもらった。特に後半では、生徒諸君が納得するのは、いわゆる受験指導ではなくもっと学問的に深い内容であることを知った。生徒諸君が興味をもってくれた“nature”の内容紹介は、19年間続いた。生徒諸君の抱く知的興味は、いつの時代も変わるものではない。もし教師を志す人がいたら、このことを是非忘れないで欲しい。そして、管理職になるなら、駿馬と駄馬を見分けることができる伯楽になって欲しい。両者がそろってこそ、今よりはましな教育界が築けるものと思う。

 最後に、「教えることは夢を語ること、学ぶとは誠実を胸に刻むこと」アラゴンのこの言葉が、私の教師としての支えだった。

Communicated by Takehisa Oikawa, Received August 28, 2002.

©2002 筑波大学生物学類