つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2002) 1: 54-55.

連載:高校の授業で取り上げて貰いたい「がん」

―その1「がん」は多細胞生物の宿命―

本間 良夫 (埼玉県立がんセンター)

 現在我が国の死因第一位は「がん」であり、その社会的関心度も高い。当然、「がん」は医学界においては重要研究課題の一つであるが、残念ながら生物学においても重要な研究課題であるという認識は一般的になっていない。生 物学の研究・教育に携わっている方々の守備範囲の中では「がん」はどのような位置に存在しているのだろうか? 発生学を研究されている方々においても、この話題は圏外に置かれているものと推察される。この領域の研究に携わっている者としては残念なことではあるが、我々自身のPR不足も反省しなければならないのも確かである。

 「がん」はヒトや家畜にだけ認められる疾患だろうか?生物界のどこまで「がん」は認められるのだろうか?比較腫瘍学の文献を見ると、脊椎動物はもとより下等無脊椎動物さらには植物においても「がん」らしきものが報告されている[1]。つまり多細胞生物の全てに「がん」または「がんもどき」が有ると言っても過言ではない。生物における情報伝達システムは高等生物になると極めて多様化しているが故に、ヒトのがん化のメカニズムもそれに対応 して複雑化している(機会があればこの点も概説したい)。比較的単純な情報伝達機構しか持たないと考えられる下等な生物においても「がん」が発生することから、多細胞生物の本質的な部分と「がん」は密接に関連していることを推測させる。この事実一つとっても生物の授業で「がん」の話を取り上げても良い筈である。しかし残念ながら、池田清彦氏の「新しい生物学の教科書」[2]によると、現在の高校の生物の教科書で「がん」に関係するトピックを取り上げているものは一つもないらしい。だとすると我々は声をさらに大きくして「がん」の生物学における重要性をアピールしなければと痛感する。教科書の範囲外でも、せめてちょっとした話題とした番外編として取り上げて貰いたい。老化に関しても教科書には記載がないというが、誰も生物は老化するということを知っている。しかし「がん」についてはどれだけ知っているだろうか?

 耳慣れない医学専門用語が氾濫するため、取っ付きにくい面があるのは否めない。「がん」と「癌」を我々はきちんと使い分けている。また類義語として腫瘍という用語も出てくるのでさらに混乱してしまう。しかしきちんと整理して覚えれば何のことはない。図1に示すように、もっとも広義の用語は腫瘍である。そのうち医学的に深刻な症状を呈するものが悪性腫瘍と言い、「がん」と同義である。悪性腫瘍の中で、上皮性の細胞に由来するのを癌と呼びヒトにおいてはもっとも多い疾患である。胃癌・肺癌・乳癌・大腸癌などがその代表とされる。筋肉・神経など 非上皮性細胞ががん化した場合は肉腫と呼ぶ。また血液のがんである白血病はその動態の違いから別に分類することが多いが、がん細胞としての本質的な差は無い。

 下等動物に認められる腫瘍とヒトの癌を同じ土俵で論じて良いかという議論も有るが、紛れもなく悪性化と言っていい例も報告されている[1]。昆虫細胞を試験管内でがん化させ、その細胞を同系の宿主に移植して宿主をがん死させ、さらには浸潤・転移の組織像まで示したことは、明らかにがん細胞と定義して問題は無い。貝類などには「がん」とは言い難い良性腫瘍が認められることが多いようである。ウイルスによる異常増殖で、口うるさい病理学者が「がん」とは認めない例も中にはある。しかし生物学的には良性腫瘍も悪性腫瘍も同じに議論しても構わないと私は考えている。基本的には良性腫瘍も悪性腫瘍も同様のメカニズムによると思うからである。

 高校の課外活動などで「がん」について取り扱う事も出来る筈である。環境中の発がん物質の検出などには、マウスなどの哺乳類を用いて行う発がん実験にばかり頼るのではなく、もっと下等な動物を用いて行えば有利な点も 多い。河川の汚染などによる環境因子を調べるなら、メダカなどの動物を用いることも可能である。メダカは化学物質に感受性が高いので、この種の研究には好都合である。しかし変温動物なので飼育する水温に注意する必要がある。多くの発がん物質は生体内で代謝活性化されてから作用する。温度により代謝が著しく影響される動物は発 がん過程も大きく影響を受けることとなる。ゼブラフィッシュを飼育しているならそれも好材料となる。金魚に自然に腫瘍が発生することは昔からよく知られていた。丹念に観察すれば、自然に発症する腫瘍も見つけられる筈で ある。ショウジョウバエなども面白いが、短命すぎるのが欠点となる。しかし多くの発がん物質は催奇形性を有しているので、奇形の発症の有無で検討してみる手もある。ただすべての動物が同じように「がん」を発生してくる とは限らない。ヒドラのようになかなか腫瘍を発生させない動物もあるので対象とする動物選びに注意を要する。特別な実験設備が無くとも、ちょっと訓練は必要となるが身近にある実験動物を用いて興味深い「がん」に関わる研究課題を見つけられる。興味ある先生は是非検討してみて欲しい。

 悪性腫瘍が死因のトップだとは言え、すべてのヒトが悪性腫瘍で死ぬ訳ではない。「がん」に罹るヒトと罹らないヒトがいるのも事実だが、天寿をまっとうして亡くなられた方でも解剖してみるとミクロのレベルでは至る所に「がん」の予備軍を認めるという。つまり生物の宿命として腫瘍は出来てくる。ある人は早く悪性化が起こりそれによ り死に至るが、またある人は死ぬまで腫瘍が顕在化しなかっただけである。もし人間の最高寿命である120歳まで生きた場合、がんで死ぬヒトはもっと増えると予想される。通常の寿命を越えてから認められるがんを「天寿がん」 と呼ぶ。つまり寿命まで生きているのに絶対に腫瘍が出来ない生物はいないと考えられている。そこで、タイトルに記したように「がんは多細胞生物の宿命」である。 「がん」は生物学の重要研究課題として認知されて然るべきだと考えていたが言い出せなかった。その原因は私が 医学教育には多少関わっているが、生物教育の場から離れすぎていて現状を把握出来ていなかったことによる。しかし池田清彦氏(実は私の大学での同級生)の前述の著書に、高校の生物の授業で「がん」も取り上げるべきであ るとの主張に出逢い、我が意を得てこのコラムを書くに至った。ともかく生物教育に携わっている方々にもっと「が ん」について知って貰いたい。まずそこが出発点と思い筆をとった。本コラムは現学類長からの強い要請により寄 稿したが、もし事情が許せば「がんの生物学」についての続編を順次掲載する予定である。ご意見・ご批判を頂ければ幸いである。

  図1 腫瘍と癌

参考文献
  1. Dawe CL, Harshbarger JC, Kondo S, Sugimura T and Takayama S. Phyletic approaches to cancer. Japan Scientific Societies Press, Tokyo. 1981.
  2. 池田清彦:新しい生物学の教科書;新潮社、2001.
Communicated by Jun-Ichi Hayashi, Received July 24, 2002, Revised version received July 26, 2002.

©2002 筑波大学生物学類