つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2002) 1: 14-15.

迷走の軌跡

横浜 康継 (志津川町自然環境活用センター、 元 筑波大学 生物科学系)

 生物学類の学生は卒業までの間に何度か伊豆の下田を訪れる。そこには本学の教育センターのひとつである下田臨海実験センターがあるためだが、ここでの臨海実習は多くの卒業生の心に楽しい思い出として刻まれていること だろう。私にとっても、東京教育大学理学部生物学科植物学専攻の学生として受講したさまざまな授業の中で、下田での臨海実習は最も鮮明な映像を伴った思い出となっている。そしてその舞台となった理学部附属臨海実験所の スタッフになり、34年間もそこで暮らすことができた私は、世界中で最高の幸運の持主だったと言えるだろう。

 下田の臨海実験所の存在を、私は高校生の時に生物担当の先生の話から知って、そこでの臨海実習という授業を是非受けたいと思うようになり、その後の進路を決めてしまった。しかし実際に入学して2年目に受けた臨海実習 は、高校生の時に勝手に描いていた夢とはかけ離れて過酷なものだった。エネルギーにあふれた若き日の千原光雄 先生から海藻の採集と標本作製そして深夜におよぶ講義を受けるが、そのあとで街へ繰り出してしまう。こんな毎 日を繰り返して、体重は何キロか減ってしまったが、やはり下田で過ごした約1週間は、4年間の学部生としての 生活の中で最高の思い出として残ることになった。そして何よりの私の心を捕らえたのは、海辺に住んで海藻の研 究に専念する千原先生の姿だった。それから丁度10年が過ぎて、私自身が下田へ赴任することになった。

 下田で臨海実習を受けたいという思いから、東京教育大学へ入り生物学を学ぶことにした私なので、卒業研究は下田で行うのが当然のはずだったが、実際には海とは関係ない種子の発芽生理の研究室に所属することになった。多 くの野生植物の種子はまいてからまっ暗のままにすると発芽しないが、光を1分間あてただけで発芽するようになるという。今日では比較的よく知られるようになった「光発芽現象」なのだが、この神秘的とも言える小さな種子が示す目覚まし現象の存在を先輩から知らされた私は、その謎を解きたくなってしまったのである。

 大学院へ進み、謎の奥深さを思い知らされるだけに終わった研究内容で何とか博士課程を修了した頃、千原先生 が臨海実験所から国立科学博物館へ転任された。植物学教室の教室主任の西澤一俊先生から、千原先生の後任としての白羽の矢を立てられた私は、即座に就任の意志を固め、発芽生理の研究は中断することにした。

 卒業研究のテーマを決める時には、大学進学の動機を忘れたかのようだったのだが、大学院終了後は就職のためにそれまでの研究テーマをあっさりと捨ててしまったわけである。10年ほどの学生生活での2度の大旋回的進路変更は迷走と呼ぶしかないが、その結果、高校生の時から憧れていた下田の臨海実験所へ赴任することになったのである。

 下田へ移った私は海藻の光合成を測定することにしたが、それには理由があった。種子の発芽の研究をしていた私は、まかれてからの種子の呼吸を測定する装置の開発を思い立ち、下田へ移る直前にそれが完成していた。実際には種子が呼吸して吸収する酸素の量を測る装置なのだが、海藻が光合成を営んで発生する酸素の量も測れる。種子の研究を捨てた私は非常に要領よく海藻の研究を始めることになった。

 海辺に住んで海藻の研究に専念するという夢が実現したのだが、やはり本校から離れていることによる情報不足は心配だった。しかし全国の臨海実験施設の中でも随一と言えるほどに多様な自然環境と生物相に恵まれているわりには、首都圏からの交通の便がよいため、来訪する研究者も多い。宿泊棟に数日間滞在して束の間の研究に専念するのだが、常駐の卒研生や院生達と食堂で同じメニューの並ぶ食卓を囲み、暇があれば私のような専任教官の研 究室で雑談する。昼間なら緑茶かコーヒーぐらいだが、夜になると学生も交えて酒宴になったりする。このような時、来訪者からいろいろな情報を聞くことができ、議論を未明まで続けてしまうこともある。

 臨海実験所は砂漠に中に在りながら東洋の情報も西洋の情報も手に入るオアシスに似ているのだが、私などはオアシスの酒場の亭主といったところである。遠方からの来訪者にサービスして報酬を得るのだが、それは研究に関する情報である。

 臨海実験所は別の意味のオアシスでもある。磯で生物の観察や採集をする実習生達は活き活きしている。私自身その体験者なので、彼等の心の動きはよくわかる。そして常駐している卒研生や大学院生は幸せそうである。

 オアシスで34年も過ごせた私は非常に幸せだったのだが、オアシスで過ごす楽しさを幼児から高齢者までの誰もが味わえるようにしたいという思いを、かなり早くから抱くようになっていた。しかし大学の臨海実験所は大学の学生や研究者しか入れない狭き門のオアシスである。

 1976年に筑波大学下田臨海実験センターと称するようになってから7年後の1983年に、筑波大学の公開講座のひとつとして教員対象の実習を始め、1994年には高校生対象の公開講座も開設した。オアシスの狭き門を少しでも広げるための苦肉の策だったのだが、眼を輝かせている高校生達の姿に、私は満足するというより、むしろこのような体験をもっと多くの人に楽しんでもらいたいと一層望むようになってしまった。この思いを達成するには、新しいオアシスをどこかの海辺に自力で作るしかないのだが、この夢は下田へ赴任した直後の30代の初め頃に抱き、そ して早々に破れていたのである。

 種子の呼吸を測るために開発しながら下田で海藻の光合成の測定に使うようになった装置は、後に製品化され、プ ロダクトメーターという名も付き、高校生用の普及型は文部省の理科教育振興法による購入費補助の対象になった。 もし国内のすべての高校が数台づつでも購入すれば、実用新案の権利使用料は莫大な金額になるので、その金で研究所を建てようなどと皮算用した。しかし間もなく日本もコンピューター時代に入り、ブラックボックスのない素朴なプロダクトメーターは人気を失ってしまった。  夢破れて久しく、定年を5年ほど後に控えた頃、縁あって宮城県の志津川町という三陸沿岸の町の「リアス自然シンポジウム」に招かれた。集まった1,000名近くの人達に、「このままでは人類に未来はなく、地方の生活を見直すべ きだが、志津川の人達は良い環境の価値に気付くべきだ」と話したところ、当日の夜の慰労会で、「それほど志津川がすばらしいなら、引っ越して来たら」と挑発された。即座に私は「研究所を建てたい」と応じてしまった。

 研究所作りは一夜のうちに具体化の方向へ歩みだしたが、しばらくして町当局から、町立の自然環境活用センター を使ってほしいという話があった。築後15年ほどの施設だったが、立派な鉄筋コンクリートの2階建てである。観 光施設と研究施設を兼ねて発足したが、いわゆる社会的ニーズの変化から新たな展開を模索していたところだったという。

 破れた夢が何倍もふくらんで実現になり始めたのである。1999年4月1日から志津川町民となり、ボランティア 所員として頑張る、と宣言していたのだが、町の有志達は不安に思ってか、何度か下田を訪れた。そして1999年の 2月には町の企画課長と水産課長が「非常勤特別職として迎える」という町長の招聘状を持参した。

 5年前には夢にも思っていなかった三陸海岸の町へ約束の日に赴任した。幸いにも自然環境活用センターのすぐ近くに宮城県志津川海洋青年の家という宿泊研修施設があり、そこを利用する小中学生の団体からの講座受講の申込が相次いだ。当初のスタッフは私と若い技師1名のみで、顕微鏡などもないままできるのは「海藻おしば作り」の講座ぐらいだったが、これは下田時代の私のアシスタントでグラフィックデザインを経験した人の発案で、20年ほど前から下田周辺の小中学生や社会人を対象に開いてきたという歴史がある。5月末から始めた講座の受講者は年度内に延べ1,500名ほどになった。

 気を強くした私は、次年度の課題として、スタッフと設備の充実を要求し、7月には下田での教え子の太齋彰浩 君を電力中央研究所からスカウトすることができ、早速立案してもらった志津川エコカレッジ事業は県から約1,000 万円の補助を受け、町費と合わせて走査型電子顕微鏡(日立S3000N)と周辺装置のほか分光光度計・パソコン類・ ウェットスーツ30着などを購入することができた。走査型電子顕微鏡の購入は井上勲氏のアイデアだったが、地元で盛んに養殖されているカキなどの餌として重要であるばかりでなく、地球の歴史でもCO2を吸収しつつO2を発生しオゾン層も発達させるという重要な役割を果たしてきた、微細藻類という生物の存在を知るための主力兵器と なった。小学生でもこの装置を操作し、ミクロな生物のリアルな映像をモニターで見たりプリントしたりしている。

 3年目に入って、やはり私の教え子の田中克彦君を任期付研究員として採用し、2名の臨時職員を合わせて、スタッフは6名となった。研究室・実験室・実習室・交流室なども整備され、実習用の顕微鏡類も購入された。迷走の末、夢の研究所は完成したのである。

志津川町自然環境活用センター
宮城県本吉郡志津川町戸倉字坂本40
TEL.0226−46−9109
ホームページ http://www.nature.shizugawa.miyagi.jp/index.htm
Contributed by Yasutsugu Yokohama, Received August 14, 2002, Revised version received August 15, 2002.

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