つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2003) 2: 16-17.

特集:生物多様性

生物多様性条約の下での多様性研究とカルチャーコレクション

中桐 昭 (生物遺伝資源センター)

 私は、2002年4月に千葉県木更津市かずさアカデミアパーク内に開設された生物遺伝資源センター (NITE Biological Resource Center (NBRC)) (NITEはNational Institute of Technology and Evaluation 製品評価技術基盤機構) に勤務して、微生物、特に菌類の菌株収集、保存、分譲(研究者への分与)および菌類の分類学的研究などカルチャーコレクション(微生物など生物の培養株を研究や工業利用などの要請に応えて提供できるように収集と保存を行う組織,施設)の業務を行っている。カルチャーコレクションの使命のひとつは、なるべく多くの多様な微生物株を収集保存し、国内外の研究者のさまざまな求めに応じて菌株を供給できるようコレクションを充実させることである。このためには、日本国内だけでなく広く海外も対象として、自然界に生息する微生物を採集し、同定し、分類学的研究に裏付けられた菌株を収集していく必要がある。しかしながら、生物多様性条約が制定されて以来、この活動を行う上での制約が問題となってきた。生物多様性条約の下での海外生物資源へのアクセス、基礎研究でいえば、海外におけるインベントリーや分類学的研究を行う上でどのような問題が生じているか紹介したい。

生物遺伝資源センター(NBRC)

 生物多様性条約は、急速に失われつつある生物多様性の保全を目的に制定され、1993年に発効された。我が国もこの条約に調印、批准している。この条約は単に地球環境や生物を保全することをうたったのではなく、人類が生物資源(ここでは生物遺伝資源と同義に用いる)を持続的に利用すること、つまり利用しながら生物多様性を保全することを前提とした。生物資源には、たとえば医薬品開発の元となる微生物や薬用植物、農作物や園芸品種の元となる野生種、原種など生き物そのものから、住民が身のまわりの生物に関して持っている伝承知識までも含まれる。条約においては、これらの生物資源を利用することによって生じた利益に対しては、生物資源原産国の権利が認められ、資源利用国と原産国との間の利益の公平な配分を実現することが求められた。条約発効当時は、一部の資源国(途上国)ではそれこそ国土(微生物を含む土)が金にでもなったかのような幻想にとらわれた国もあったようだが、さすがに今は冷静さを取り戻している。しかしながら、この条約によって生物多様性のもたらす経済的側面がクローズアップされ、さらには誇大視されることとなってしまった。このため、海外、とりわけ途上国の生物(資源)にアクセスしようとすると、様々な制限が課せられたり、原産国との契約のもとで事を進めることが必要となってきた。つまり海外において、たとえ分類研究のような基礎研究であっても、生物資源を調査すること や国外に持ち出すことの許可をその国(原産国)から得ることがまず必要であり、持ち出した資源の管理や第三者への移転に関して、制限を含め原産国と事前に契約を結ばなければならない。また、もしその生物資源が応用研究 に用いられて何らかの知的財産権 (Intellectual Property Right)や利益を生み出した場合に、その取り扱いや利益の配分(Benefit Sharing) をどうするかをあらかじめ決めて、契約を交わした後に研究を行うことも必要である。 このように、海外との共同研究の実施が条約発効以前と比べ、格段に多数の様々な手続きを要するようになった。

 このような状況の下で、カルチャーコレクションはそのコレクションをより充実させるために、海外との共同研究を通して、海外の微生物株を収集することが求められている。これを実施しようとする場合、上述したように生物多様性条約に基づくさまざまな契約や同意を原産国との間で取り交わすことが必要であるが、カルチャーコレク ションという立場が事をより複雑にしている。つまり、カルチャーコレクションは収集保存した菌株を第三者に分譲するため、分譲先での菌株の利用状況、特に商業利用について原産国が追跡できるシステムを用意して、それを原産国側に提示することが求められる。したがって、カルチャーコレクションの研究者が海外で多様性研究を行い、その際に取得した菌株をコレクションに入れようとするならば、研究開始前に研究内容と分離される菌株の取り扱 いを含めた事前合意(Prior Informed Consent)を行い、菌株の日本への持ち出し、コレクションへの寄託の際の方法や条件に関する生物資源移転契約(Material Transfer Agreement)を交わすことに加えて、菌株ユーザーが菌株を商業目的で利用する際に、ユーザーが原産国と新たな契約を取り交わすことを含めたMTAをコレクションと菌株ユーザー間で取り交わすよう準備することも必要となってくる。

 ところでこのように、生物多様性条約の下でのカルチャーコレクションの立場と菌株収集の手続きについて解説がましく述べてきたのだが、実は、実施例としては3年ほど前に(財)発酵研究所がタイ国と行った事例があるだけである。上に示した原産国との手続きなどは、その1例に基づいて記述したものである。このように、世界でもほとんど実施例がないのが現状であって、カルチャーコレクション側も原産国側も、契約条件などをどうするか、お互い手探りの状態でなかなか実施できないでいる。この状況を打破するために、生物遺伝資源センター(NBRC)は海 外、特に東南アジア諸国との共同研究を通した菌株の入手に踏み出そうとしている。その際に、相手国とは生物多 様性条約に則った手続きを踏むのはもちろんであるが、資源国に提供するbenefitとして、金銭ではなく、分類学 や菌株保存などに関する研究協力や技術援助を行うべきと考えている。一方、資源国の側も、確率の低い商業利用 に発展した場合のロイヤリティーを期待するよりも、むしろこういった技術協力を望んでいる。このような協力が 実施され、カルチャーコレクションの技術移転が進んで、資源国が自国の生物資源を自分たちで保存し、世界中の 研究者に供給できる体制と制度が整えば、それこそが生物多様性条約の目的にかなうものだろう。その意味で、カ ルチャーコレクションの研究者は、資源国の期待に応えられるよう、海外との連携を進めるとともに、みずからの (研究者自身および自国の)生物多様性研究のレベルを上げる努力を続けることが必要であろう。

Communicated by Isao Inouye, Received December 25 2002, Accepted Januy 7 2003.

©2003 筑波大学生物学類