つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2003) 7: 320-321.

シリーズ:国立大学法人化

連載「国立大学の独立法人化を考える」第2回 大学の問題点はどこにあったか

浦山 毅 (共立出版編集部)

 大学人にとっても社会人にとっても、その必要性が認識されていた大学改革。どういう形に改めるべきかについては理想論も含めて多くの意見が提案されたが、では改める前の大学のどこにどういう問題があったのかについてはきちんとした分析がなされているとはいいがたい。よくいわれることだが、現在の大学は本当に、教授会が権威化しすぎている、組織が硬直化しすぎている、補助金・研究費の配分がずさん、国際競争力に乏しい、閉鎖的すぎる、社会への還元がない、のだろうか。ひとつずつ検証してみよう。

<1> 教授会の権威化?   今回の法人化で、大学が、教授会による自治運営から、学外者を含む役員会・経営協議会による運営へと切り替わる。「自治の喪失」を法人化反対の最大の理由にあげた論客は多かったが、では自治とは何かと問われるとよくわからないのが実状である。よくマスコミが好んで用いる「表現の自由」の“自由”と同じような意味で“自治”という言葉が使われているのかもしれないが、教授会に、ある種の「自浄作用」が働かなかったことが一つの問題点ではなかろうか。

 自分の研究内容を他人にとやかく言われるのは気分を害されるが、大学全体あるいは学問全体を見渡して、教授会がお互いの研究内容や進捗状況を報告しあい、閉塞状況にあると感じた教授はみずからを反省して軌道修正を自発的に申し出たり、まちがった方向に進みつつある人にはそれをやめるよう勧告できるといったような自浄作用は無理だろうか。

 教授の権限は強大で、一部では教室員の人事から個人の生活まで教授の自由にしていたというゴシップ記事がときどき週刊誌を飾る。そういう教室内には“自治”は存在していない。もちろん、それは一部の教授の横暴ともいえる行為であって、大部分の教授はそれこそ身を粉にして教室内をまとめる努力をされていたとは思う。だが、学閥が横行しすぎて教授会が一部の集団に乗っ取られたり、教授どうしがお互いの不正行為を黙殺しあったりして、まったく機能不全に陥っていた教授会もあったと聞く。

 法人法には教授会の位置づけは定められていないが、誰かが「私立大学でよく起きる教授会と理事会の対立の図式が持ち込まれる可能性がある」と書いていた。すべては経営が優先し、教育や研究は二の次になることを危惧しての発言だと思うが、法人化でそうなる大学が出てくる可能性がないとはいえない。

<2> 組織の硬直化?   大学の運営に関してはさまざまな規制があって、何かをやろうと思ってもすぐには対応できないほど組織や規則が硬直化していたのは、おそらく確かだろう。1991年の大学設置基準の大綱化(いわゆる緩和)によってさえ、やっとカリキュラム編成が自由になり、一般課程と専門課程の壁が撤去され、それに伴い教養課程や教養部が廃止された程度である。

 法人化によって、学長の権限が強化され、たとえば学科の統廃合が容易に実現できるといわれている。命令系統が単純化し周囲の状況変化にすぐ対応できる体制となることは好ましいことだが、一方で学長の采配が大学の個性、ひいては大学の存続にまで影響を及ぼしかねない。一部には「大学が学長に乗っ取られる」といったヒステリー的な批判も聞かれる。

 権力の一極集中化は、ある意味では危険だが、いざというときに自浄作用が働くように非常弁を設けておけば、あとは学長をはじめとする大学のリーダーの裁量にすべてを任せてしまってもよいのではないかと私は思っている。ただ、その学長でさえ文部科学省にお伺いを立てて判断を仰がなければならないとしたら、それは中途半端な制度と言わざるをえない。国は、金は出すけど口は出さない、といった太っ腹な気持ちでいられないのだろうか。

 ところで、日本には昔からまちがった平等主義がはびこっている。「誰でも等しく教育を受ける権利」といったような最低限の平等はぜひ必要だが、人より秀でた能力を生かし切れない制度などは悪平等の典型である。できる人には、能力に応じておおいに活躍してほしい。特権を与えて、できる人が動きやすい環境をつくることはとても重要なことである。

 ここまで書いてきながら、じつは私には大学の組織の硬直化といわれるものの実態がいまいちよくわかっていない。意志決定に長時間を要するといったことだけでなく、おそらく教員人事・職員人事のもどかしさ、諸会議の多さ・複雑さ、雑用の多さなど、現場でしかわからないことが数多く存在しているのではないかと想像する。このあたりのことは、ぜひ現場の人からのご発言をお願いしたい。

 とくに、教員を除く大学職員の方々は何をしておられるのだろうか。どこかで「国への大学補助金の陳情も大きな仕事である」というくだりを読んだことがあるが、実際にどういう仕事をされているのかよくわからない。まさか、事務処理だけではあるまい。いま、民間企業内でもっともリストラの対象となっている部署は、比較的オートメーション化しやすい総務・事務部門である。これからは大学も減量経営を迫られるだけに、職員の役割というものが注目されるようになるだろう。

<3> 補助金・研究費の配分がずさん?   補助金の配分について、本当にずさんかどうか私は知らない。しかし、いろんなところでそういう声を耳にする。私が学生当時、筑波大学には全補助金の半分が回され、その残りのほとんどを東大を筆頭とする旧帝大で分けあい、その他の大学にはわずかな額しか配分されない、とまことしやかな噂が流れていた。事の真偽はわからないが。

 研究費については、配分の最終決定権は文部科学省にあるわけだから、そこでの決定がずさんである、すなわち適正に配分されていないということだろうか。だが、文部科学省の役人が研究現場を十分に理解しているとは思えないから、じつは研究者や学識経験者で構成され研究費の配分を仮決定する会議(正式名称は知らない)での審議の仕方が、ずさんということなのだろうか。

 よくいわれることだが、そういう会議のメンバーに選ばれるような人は、概して高齢で、研究者であればすでに現場の第一線を退かれており、最先端の現状をほとんど知らない。あるいは、企業の中ですでにトップに登りつめ、やはり現場や大学の現状をほとんど知らない。研究者の中でも、政治が好き、権威が好き、話好きという人が選ばれる傾向にあるというが、それは真実だろうか。

 研究費は、現在進行中の研究に与えられるというよりも、その研究の少し先の将来性に投資されるものであろう。だが、どの研究に将来性が期待できるかは、現場の最先端にいなければ感じ取れないはずである。つまり、会議のメンバーを現場のリーダーに刷新し、真に将来性の高い研究に多くを配分できるように考え直さない限り、ずさんな配分は是正されないということではないか。

 じつは法人化後も、運営や研究を評価して補助金や研究費の仮配分を決定する会議が存在する。もし、そのメンバーの顔ぶれが現在の会議とそれほど大きく変わらないのだとしたら、やはり配分はずさんなまま、ということになってしまうのではないか。

<4> 国際競争力に乏しい?   アメリカには、短期間で業績をあげなければならないといった体質がある。必要とあらば、多くの人と金を注ぎ込んで、目的に向かって猪突猛進する。ライバルを蹴落とすためなら、手段を講じないという徹底ぶりである。その行為が、ライバルとの適度な競争として働いているときには、本人も自然とスキルアップし、作業も効率化して好成績をあげることができるが、それが度を越した場合には競争は消耗戦に突入し、さまざまなトラブルが発生して当事者は身も心もずたずたになる。

 この「競争原理」を日本が取り込んで成功したのが、民間企業、とくにメーカー系の大手企業であった。法人化で、国は大学にこうした競争原理を導入しようとしている。しかし、これはモノをつくる分野(工学や薬学;民営化できる分野でもある)の、しかも研究には適用できても、生物学などの基礎科学の研究分野や教育といったカテゴリーには、はっきり言ってなじまない。

 本当に日本が国際競争力に乏しいのかどうかはわからない。どこかで誰かが「日本にも立派に世界のトップで競争を繰り広げている研究者がいる」と書いていたのを読んだことがある。つまり、日本人はけっして劣っているのではなく、むしろ劣っているのは日本国(の制度)ということではなかろうか。あくまで国際競争をしているのは、人であって大学ではない。日本人にはどうしても人でなく大学を、しかも平均点で評価してしまうという悪い癖があるようなので、正しい目で物事を見つめていくためのいっそうの努力が必要であろう。

 これも誰かが言っていたことだが、「基礎科学は研究目標を先験的に決定することが元来不可能」である。基礎科学の分野では、最初から結果がわかっているようなつまらないアプローチの仕方はしない。とすれば、法人化で評価を行なうために最初に目標を立てさせることは、逆に基礎科学自体の幅をせばめる、ひいては否定することにつながりはしないだろうか。先にあげたモノをつくる分野では目標を立てることは可能だろうが、基礎科学では無理な注文なのである。

 「無駄の効用」という言葉がある。一見、無駄と思える研究を行なえる「ゆとり」が基礎研究には必要である。もちろん、本当の無駄とそうでない無駄とは、研究者自身が区別をつけなければならない。本人が判断できなければ、教授会のような組織が一種の自浄作用を働かせて本当の無駄を排除していかなければなるまい。そのふるいにかけられた研究こそ、独創的な研究とよべるものなのではないだろうか。

<5> 閉鎖的すぎる?   閉鎖的というのは、おそらく学外(他大学、他研究機関、民間企業など)との共同研究・人事交流がほどんどない状況を指していると思われる。これはたぶん、対等な共同研究を苦手と感じる日本人の体質が影響している。海外の研究者との「人事交流」とよばれるものは昔からあったが、実態は最先端の技術を学ばせるために若手研究者を派遣しているにすぎなかった。だが最近は、世界の最先端で活躍する日本人研究者もふえてきたことから、逆に海外から若手を引き受ける立場に変わってきている。そういう意味でも、共同研究・人事交流を考え直す時期に来ていることは確かだろう。

 それに加えて、そろそろ日本でも、積極的に職場(研究環境)を変わるという行為を蔑視せず、むしろ積極的な活動と位置づけるべき時期に来ているのではないだろうか。昔から日本には「職場を変わる人は人間関係がうまく築けない失格者」という烙印を押したがる悪い癖があった。スタンフォード大学では年に約7%(100人以上)の人間が入れ替わるというが、教授のポストでさえ永久職と考えず、さらなる発展を求めてどんどん職場を変わる、あるいは積極的に教室の雰囲気を変える必要があるのかもしれない。

<6> 社会への還元がない?   上記と関係することだが、社会に対する大学の閉鎖性として、民間企業との共同研究や国民への知識の還元が行なわれていないという指摘がある。国立大学法人の業務(連載第1回<5>参照)の中には、この閉鎖性を意識した記述がある。「学外者から委託を受け共同で研究すること、学外者と連携して教育研究すること、研究成果の普及や活用促進に努めること、公開講座などを通して国民に学習の機会を提供すること」がそれだ。  民間企業との共同研究に関しては、もともと大学と企業のあいだに認識の差があって、目的に到達するまでの情報はすべて公開すべきだと考える大学と、あくまで秘密あるいは特許としたい企業とのあいだには、つねに軋轢がある。費用に関しても、税金と私費との線引きがつねに問題になる。また、国家公務員が企業の役職を兼務するとか、逆に企業人が大学生に教えようとすると、そこには越えがたい規制の壁が存在している。

 研究成果の活用に関しては、大学の地域貢献の例として、ある新聞が広島大学のケースを取り上げていた。広島大学では地元から問題を提供してもらい、解決案を無償で提供する試みを始めたという。まだ始まったばかりで成否のほどは不明だが、大学が地域に溶け込む努力をしなければならない時代になったということだろう。

 筑波大学のうたい文句だった「開かれた大学」というのも、たぶん閉鎖性を意識してつくられた言葉だろう。だが、その解消策として地域住民への公開講座を考えたかどうかは知らない。そもそも、「開く」というのはどういう行為を指して言うのか。そして、誰に対して「開く」のか。

 大学院も変化してきており、来年から法科大学院(ロースクール)をはじめとする専門職大学院があちこちでスタートする。大学院が、研究者の養成から、高度な専門職業人の育成へシフトし出した結果である。筑波大学も、すべての教員を博士課程大学院、専門職大学院、付置研究所のいずれかに所属させるという。ドイツではすでに大学自体が、理論や基礎研究を行なう「総合大学」と、実学、即戦力、企業からのテーマを主に研究する「専門大学」に分かれているらしい。

 社会の中での大学の役割。それを考えることこそ、社会への還元の「答」を見つける唯一の手段かもしれない。国民が大学に何を求めているか。国民が大学生に何を期待しているか。まちがっても、学生(高校生)が本学に何を求めているかなどと狭量な了見で大学を考えてはいけない。むしろ、本学を出た学生が社会の中できちんと活躍できるか、社会に出て恥ずかしくない社会人に育てることができるかを優先して考えるべきである。

Contributed by Takeshi Urayama, Received August 26, 2003

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