つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2003) 7: 318-319.

シリーズ:国立大学法人化

国立大学の独立法人化 ―法人化と大学の教育改革―

渡邉 良雄 (元筑波大学 生物科学系)

 我が国には、国立大学が約100校、公立大学(県立、市立)が約75校、私立大学が約525校、計約700校の4年制大学が存在する。私立大学がこんなに多い国は世界でも類を見ない。そんな中で、我が国の教育改革が先進諸国に比べ大変遅れているため、国際競争力にまで影響がでているのが紛れのない事実となってきた。スイスのIMDという研究機関が数百項目にわたる国際競争力に関する調査をした結果から、日本が世界のトップ5にいたのは1992年までで、それからは右肩下がりに、競争力が直線的に低下し、調査46カ国のうち、30位を割る状況になっていることが示されている。その結果は、各国が、国の将来に関して、資金の充実による公共施設の整備等のハードウエアよりも、人間の英知を尊重するための教育と言うソフトウエアに重点をシフトしてきたからに他ならない。人間の持つ能力を資本と考えているのである。日本では国民の教育に関する意識改革があまりできておらず、益々海外との格差が大きくなっていく現状に、私は危機感を抱き続けてきた。

 先進諸外国が研究・教育に関し、どんな動きをしていたかに就いて、少し触れてみたい。私が、1962年に、理学博士の学位を取ってすぐ、自分の研究を発展させるために留学したのが、ベルギー王国のブリュッセル自由大学の化学発生学創始者として著名なジョン・ブラシエ教授の教室だった。教室には、ベルギーのスタッフ以外に東西の諸国から40名ほどの学者が集まってきていた。研究に就いての討論は言うに及ばぬ事であるが、日本では話題にすらでていない、21世紀における研究・教育の在り方が半世紀も前から議論されていて、2−3年後には、新しい構想の大学が、ドイツにもイギリスにも設置されるとの話しを聞き、大変驚いた。21世紀は科学技術が飛躍的に進歩発展すると共に、国際化が進み、多くの学問分野にまたがる学際的で、解答も見当たらない問題が山積みする激動の社会が到来すると言う確固たる予測の基に構想が議論されていた。事実1965年には、ドイツのボッホム大学、イギリスのサセックス大学を始め新構想の数大学の設立が実現し、その流れは瞬く間にヨーロッパやアメリカへ広がっていった。議論されていたことは(1)21世紀の激動の社会に柔軟に対処可能な組織を持った大学にすること、(2)激動の社会で解答のない問題を自分で切り開くことができる若者を育てるには、広い学問的知識を持ち、自ら考え、自ら学び、洞察力、判断力、チャレンジ精神を持続できるような人材の育成(教育)をどうしたら確立できるか、(3)進歩発展する学問分野の基礎教育として何を取り上げ、年齢に応じて何をどう教えるのか、等であった。 日本では、(1)に関してもなかなか手が着かず、やっと、1973年の9月に、先進国に遅れること8年目に、構想を掲げ柔軟な組織を持った筑波大学が、文部省と東京教育大学の検討の結果、全国の大学や大学人の反対を押し切って設立されたのである。但し、筑波大学1校だけが柔軟な新構想を掲げてもどうにもならないことは明白であった為に、その後、臨時教育審議会で審議され、更に答申を具体化するために大学審議会が設置され、1991年7月にやっと大学審議会の審議を経て「大学設置基準の大綱化」という法律が設定されるようになった。(2)や(3)の議論や実施等も諸外国から大きく水をあけられている。国立大学の独立法人化は、その構想が政治的な側面や産業界からの圧力があったり、法律の内容が不十分であったり、評価基準が曖昧なうちに中期展望や結果を求められたり、様々な批判が寄せられてきた。今でも、満足のいくものとは言い難いと私は思っている。しかし大学にとっては、改革を進め、先進諸外国に追いつく絶好の機会であると捉え、日本の若者達が世界のリーダーシップを取り戻し、活躍するようになれるまたとない良い機会とすべきと考える。法案が既に通り、法人化が平成16年4月1日から施行されるのである。今更じたばたするよりも、これを受けて前向きに対処すべきである。とはいえ、私立大学と同様な民営化に移行するわけではない。特に科学技術の発展に繋がる理系の教育・研究は巨額な予算を伴う観点から、これまで本格的な理学部を持つような私立大学は殆ど設置できなかった訳である。本来、憲法89条「公金その他の公の財産は(中略)公の支配に属さない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これに支出又はその利用に供してはならない」にあるように、私学助成金は憲法に抵触するのである。経営を第一義的に考えると、私立大学には巨額な予算を伴う理学系の学部は科学が進歩するほど膨大な予算となるため設置できなかったのである。国立大学が「法人」になり、運営だけでなく経営も配慮せねばならないとは思うが、理学系の教育や研究は例外として学長や当該教員達の知恵を出して従来以上にして貰いたいと願う次第である。私立大学のような独立採算性を尊重したのでは国立大学の法人化後、理学系の教育・研究が惨めなものとなり、国は滅び行くだけである。

 教育が国にとって如何に大切かと言うことについても、少々触れてみたい。日本はアメリカとソ連が対立していた冷戦時には、アメリカの核の傘の基で軍事費の投入を莫大にすることなしに専ら経済活動を推進し、エコノミック・アニマルと言われるように、GDPもアメリカに次いで世界2位になり、アメリカやヨーロッパの大企業を買収したり、ビルやゴルフ場、美術品等も買いあさった時代があった。1980年頃までのことである。だから、1979年はハーバード大学の著名な経済学者のエズラ・ボーゲルガ「ジャパン・アズ・ナンバーワン(世界一の日本)」という著書を出し日本を見習うべしと言う風潮さえあった。アメリカでは独創性を強調するが為に高校教育で基礎の必修科目まで自由選択とした時期があり、これが相対的に基礎学力の低下を招き、数年後には国の経済力も低下し、その上、ベトナム戦争で容易ならざる事態となっていった。その時(1983年)、カルフォニア大学バークレー校のガードナー総長が「ネイション・アット・リスク(危機に立つ国家)」という白書を発表し、今なら教育を建て直し再び強いアメリカに戻すことができると言うインパクトある主張を述べた。この「危機に立つ国家」論はアメリカに大きなセンセーションを巻き起こし、政府が主張を積極的に取り上げ、以来アメリカは国全体が見る見る立ち直っていった。ヨーロッパ諸国も戦後、植民地の独立によって、裕福な経済運営が困難であったし、イギリスはフォークランド戦争で経済危機を迎えていた時期であった。しかし、アメリカの1983年以後の立ち直りを見るに及んで、イギリスのサッチャー首相が1986年アメリカと同様な教育改革に踏み切り、成果を収める結果になっている。勿論、ヨーロッパ諸国も右へ倣えをしたことは言うまでもない。一方、日本では、それとは逆に、景気浮上のバブルがはじけ、経済不況、巨大な額の赤字国債を抱え、国民は再建に無関心、若者も勉学意欲を持たないものが多く見かけられる時代になってしまった。統計資料によると日本の大学生が授業以外に勉強に取り組む時間がなんと1日1時間程度、それに対して、先進欧米諸国のそれらは1日7−8時間であることが示されている。アメリカでは、ファカリティ・ディベロプメント・センター(学部教員が研究・教育の発展的在り方を研究するセンター)を設置する大学が多く、学生を如何に自主的に勉学に取り組むように教育するか、その教育内容・方法の研究の成果が実った結果とも言える。先生が、学生一人一人と向き合い、その能力を啓発するために、積極的な努力を惜しまない姿勢があってこそ、成果が挙がっているのである。教育の原点は、先生と学生との心と心の絆の形成、即ち、互いの信頼感によって成立するものである。日本ではこのことの重要性にやっと気が付き始めた程度であり、10年近く遅れているのではないだろうか。

 前述したように、日進月歩の発展を遂げている学問分野で学問の基礎や基本をどう教えたらよいか、極めて重要な問題である。年齢に応じて何をどう取り上げてどう教えていくか、また、将来で最も発展するであろう分野について、その基礎をどう教えて置くべきか、等難しい問題が山積みしている。例えば、高校生物の教科書検定などを見ていると、進化もイオンもセントラルドグマのコドン表も、PCR法等も削除されている。こんな重要な事が教育界の意見もろくに聞かずに文部科学省の権限で勝手に決めて良いものだろうかとつくづく思う。

 以上のようにいろいろな面で教育改革の必要性を述べてきた。国立大学の独立法人化は問題も多かろうが、教育改革推進には大きな歴史的なイベントであるに違いない。生物学類の関係諸氏はどうかこの機会に改革に積極的に取り組んで欲しい。本稿では法人化後の具体的な改革については紙面の都合もあって殆ど何も触れなかった。筑波大学及び生物学類の具体的な改革案に就いては、別の機会に、各論として取り上げてみたいと思っている。

Contributed by Yoshio Watanabe, Received September 9, 2003.

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