つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2003) 2: 330-331.

シリーズ:国立大学法人化

連載「国立大学の独立法人化を考える」
第3回 大学は学生に何を期待するか

浦山 毅 (共立出版編集部)

1. いまどきの学生

 いまどきの学生についてよく耳にする評価は、学力が低下している、創造力に欠けている、論理的な思考ができない、問題解決能力が劣っている、問題発見能力が不足している、即戦力とならない、などである。これはおもに学力に関するものである。いや、それ以前の、人間性に問題があると指摘される先生は多い。協調性がない、人の話を黙って聞かない、友だちづきあいができない、幼稚な言動が目立つ、仮想世界と現実との区別がつかない、何を考えているかわからない、など。

 私も生の大学生に接して、驚きを通り越して「バッカじゃないの!」とあきれた経験ならいくらでもある。もちろん、学生を十把一絡げで見ようとは思わない。まともな学生もいれば、社会人よりもはるかに大人の学生もいることは認める。ただ、問題があると指摘される学生の比率が、だんだん上がってきている気がするのである。

2. 問題はどこにあるのか

 問題のある学生は、大学以前、すなわち小・中・高校、幼稚園、あるいは家庭内で、人間として社会の中で生きる訓練をしてきていない。すべてが受験勉強だけの指導と評価しか受けてきていない。たとえ性格や行動に問題のある子であっても、成績さえよければ教師は何も言わないし、親にしてもしかりである。要領のいい子は親や教師の顔色をうかがいながら点数だけは稼ごうとするし、勉強に落ちこぼれた子は成績以外には逃げ道を見いだせず不良化してしまう。ちなみに、不良の弊害は、本人だけにとどまらず、周囲の子供に危害(ときには殺人)を加えたり不登校にさせたりすることであり、相当タチが悪い。

 さて、大学は入学してくる学生に何を期待しているのか。先生方はどんな学生を採りたいと思っているのか。賢ければ、あるいは成績がよければ、それでよいのか。大学の4年間でどんな教育を施し、どんな人間として社会に送り出したいのか。目標や理想は当然あるだろうし、授業内容についてもカリキュラム委員会などで知恵を出し合っておられるとは思う。しかし、学生は生身の人間であり、すべてが目標どおりに運ぶはずがない。

 アメリカ航空宇宙局(NASA)が宇宙飛行士に課している訓練の大部分は非常事態時の対処方法だ、と何かで読んだことがある。先生も、目標や理想から大きく外れた学生に対してどのように軌道修正を行なうか、毎日が訓練の連続だと思う。しかし、いま大学は研究を重視するあまり、教育をおろそかにしているように思えてならない。学部の4年間を高校に格下げして、本来の大学の機能を大学院に持たせようとしているのではないか。あるいは社会に媚びて、即戦力となるような企業向けの学生を量産しようとしてはいないか。よく考えてみてほしい。

 一方、社会や企業が欲しがる学生は、大学の知識をまったく必要とせず、従順な態度だけあれば十分だという。バッカみたいな話である。大学で4年も学んだ学生に、会社に就職するときは「学んだことはすべて忘れてリセットせよ」というのであるから、大学から社会への還元がないなどと文句を言いながら、社会はそもそも還元自体を拒否しているのではないか。ある有名な大手家電メーカーは、それまでのプライドを捨てさせるために新入社員を合宿に連れ出し、ふんどし一丁で滝に打たせて大声で会社への忠誠を誓わせるらしい。こんな会社には、頼まれたって入社する気はしない。

 これまで、学生の問題点を、社会は大学に、大学は高校に、学校は親に、親は学校に、それぞれ責任転嫁しているだけである。これでは何も解決しない。少なくとも大学ならば、入学させたい学生の選抜と、4年間の大学教育と、大学を卒業するための資格については責任をもつべきだろう。

3. では、どうするか

 いまは勉強に疲れた高校生が、大学に「遊び」にやってくる。これでは、学力が低下するのは当たり前である。これを改善するには、とにかく受験の方法を変えるしかないだろう。受験をやさしくして受験の労力を軽減させ、高校までは人間として生きるうえでの社会的ルールを徹底的に教え込むべきである。大学では卒業をむずかしくして、本当に学問を身につけたい人間だけに徹底して実用的な教育を施すべきである、と私は考えている。

 ところが、この話を聞いて、ある大学の先生はこう言われた。「最初から何人の学生が入学して何人の学生が残るかがわからないような授業形態は、設備や準備の都合上とれない」と。また、別の先生は「そのためには、学生をいったん教養課程でまとめてあずかって、その中で適性に応じて学部に振り分けていくしかない。入学時から専門課程を教えるいまのやり方では無理だ」と言われた。では、どうしたらよいのだろうか。

4. 入試選抜方法の改善

 そこで、まず改善すべきは入試選抜方法である。これは元来、どういう学生を採りたいかというポリシーと深く連動しているはずであった。ところが、理由はさまざまあろうけれど、成績だけで選抜する方法が主流になってしまった。どうして医者になるのに最高の成績が必要なのか、私にはちっとも理由がわからない。生物学を学ぶ学生は試験で何点ぐらいとれれば十分なのか、どなたか説明していただけるだろうか。

 私にはいまも気になる出来事が2つある。一つは、医学部に入るのにお金がかかる(裏口ではない)ことに対して、ある人が「大学に入るのに成績だけというのはむしろ不公平で、金のある人は金で入ればいいじゃないか」と言った。どこかちがうと感じながらも、その点を指摘できずにいることである。もう一つは、ある医者が本の中で書いた次のような一節である。「(一般的な社会的不正に対して)医学部の学生でさえこの程度の認識しかないのだから、一般の大学生には…期待できない」。成績の序列は、何事に対しても同じ序列だとでも言いたいのだろうか。

 ここから得た教訓は、入試はいろいろな基準で行なわれるべきだということである。コネや不正は論外だが、難解でひねくれた問題はやめて、素直な問題や書かせる問題、研究討論、実験実技、一芸に秀でたアドミッション入試などを駆使して、入学させて鍛えてやりたいと思う学生を教官みずからが選別するための努力が必要だということである。点数だけで振り分けようとすると試験問題をひねくるしかないが、いろいろな基準を用意すればいくらでも選別は可能だろう。  とにかく、成績順に上から採るといった個性のない選別ではなくて、さまざまな基準を設けて多

様な学生を採るべきである。生物学類だったら、「どんな昆虫が好きですか」「進化をどう思いますか」「キャピラリーをつくってみてください」といった問題はどうだろう。あるいは、型どおりの内申書ではなく、生き物への興味や、山歩き・工作などの好き嫌い、手先の器用さやねばり強さといった特別の項目を持った内申書用紙を高校に送るか、あるいは受験者本人に書かせてみてはどうだろう。もっとも、先生のほうにもだまされないための目利きが必要となるが。

5. 授業方法の改善

 入学したあとも改善は続く。法人化で学部学科の再編が容易になるのなら、たとえば「専門教養課程」(専門と教養を合わせたようなもの)で学生をまとめて受け入れて、2年次に専門に振り分ける方法はとれないだろうか。時代の流れと逆行するようだが、このほうが多様な学生を採りやすい。そして、1年かけて学生の適性を見抜き、本人にもそれなりの努力をさせて専門に振り分けるのである。入学してみて何かちがうと感じて退学する学生が出てきても、1年次であれば柔軟に対応できるだろう。その代わり、授業形態は相当に工夫しないといけない。

 そこで、これまでのような文系・理系といった分け方をも超越して、たとえば生物学、考古学、博物学、科学哲学、地質学といったピュアサイエンスどうしがまとまって「進化」を総合的に学べるようなくくり方がとれないものだろうか。積み上げ型の文系と置き換え型の理系の学生が適当に交流することによって、頭がシャッフルすることはまちがいない。

 卒業のための基準については、勉強をしない学生はどんどん落ちるに任せればよい。一人の落伍者もなく入学した学生全員を卒業させるというポリシーも悪くはないが、学生本人に「自分には学問を修める資質はない」と悟らせて自分から退学させるのも人生勉強になるのではないか。  ただし、あくまでも本人に決断させるところがミソである。もし社会に出てから、もういちど勉強してみたいと自発的に思えたならば、そのときにはおおいにチャンスを与えてやってはどうか。入試がやさしければ、入学したい理由をたっぷり書かせた内申書を大学の先生が読んで納得するだけで、再入学の可能性はぐっと高まるにちがいない。

6. 教科書検定について

 ――同じことを二度書くことに逡巡はあるけれど、どうしても言っておきたいのでお許し願えるだろうか。『筑波フォーラム』(2003年10月1日号)に書かせてもらったことを、もういちど書かせていただきたいと思う。

 近ごろの教科書検定の報道記事を読んでいると、首をかしげざるをえないことばかりである。検定では、たとえば「進化」に結びつく内容はすべて削除するという。生物学のおもしろさは進化そのものであり、とくに私が学んだころの空想的進化論とちがって、いまは遺伝子配列に基づく分子進化や地質学の進歩など、学問的進化論に向けての動きが活発な時代である。

 そんなときに、中・高校生に進化を教えてはならないとは何事だろうか。イオンもダメ、コドン表もダメ、電子軌道、DNA修復、ATP合成、tRNA立体構造、PCR法、ES細胞もダメとは。文部科学省は、本文とは別の箇所に枠で囲むなどすれば分量で2割程度はふれてもいいというが、そんな姑息な方法でなく、正々堂々と「本文」で勝負すべきだろう。

Contributed by Takeshi Urayama, Received August 29, 2003.

©2003 筑波大学生物学類