つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2003) 2: TJB200312YW.

特集:下田臨海実験センター設立70周年記念

渡邉 良雄 筑波大学名誉教授

(元筑波大学副学長、元生物学類長、細胞生物学)

 私が一番初に下田の臨海実験所に行ったのが、昭和25年(1950年)です。そのころは交通も不便だったので、東京の月島桟橋から菊丸という船に乗って、そして大島経由で下田に行きました。当時 はまだ食糧難。それから施設設備も、下田実験所にいろいろなものがあるわけではないので、リュックサックの中に顕微鏡ム木箱に入ったやつねム1台とそれからお米を4合だか持って下田に行ったわけです。最も印象に深かったのは、下田臨海実験所が大変恵まれた自然環境にあること、生きた様々な生物を観察して、生命の不思議さ・神秘さを実感として学んだことでした。あそこは寝泊施設がしっかりしている。今でも他の臨海実験所には、下田ほど沢山の人達の宿泊や食事の賄いのようなものが完備しているところはありません。

設立当初に建てられた研究棟(左)と水族館(右)

 教授として赴任した昭和49年から毎年、下田臨海実験所を利用しました。アメリカのすごく有名なコールドスプリングハーバーシンポジウムをまとめた厚い本(5cm位)を4日ぐらいで輪読して、ディスカッションを活発に行い、学生たちに今、世界がどのように動いているかを学んでもらいました。当時、生物学科の多くの先生たちが、下田にも研究室を設置し、そこに若い人たちがたくさん集まっていました、そのような人たちが講座を越えて、夜中にいろいろディスカッションしたりするような雰囲気があったために、下田に活気のある独特な研究のムードがありました。そのような事から、下田にいろいろな最先端の機器などが導入されないといけないのではないか、という気持ちが強くなりました。

 筑波大学の、当初では、臨海実験センターというのは、全国に臨海実験所があるので、「センター」という名前に変わっても、横並びを配慮して文部省が予算をそんなに多くつけませんでした。私が副学長になったのが昭和61年ですが、学長・副学長会議の中で、「大学の中にあるセンターが予算も人事も優遇されていて、一方、外側にあって、一国一城、これが筑波大学だというような場所を、なぜこのように軽んじているのだ」と主張をしてきました。最初のうちはそのようなことで、予備費の中からこのように手当てしてやれとか、いろいろなことを言っていました。そのうちに副学長が長くなってからは、経理の事務官がこちらから言う前に、「下田に、こういうものをつけます」とか、「先生、下田にちゃんとやってありますから安心してください」、と言うような状況になってきました。

 下田のような実験センターを独立法人化後、どのような格好で残し、発展させるかについては、難しい課題でありましょう。しかし、教育ばかりではなしに、改組・合併をしてさえも、最新の器機を充足させ、全国の大学研究者が望んで集まれってくる場所、あるいは世界からも研究しにやってくるような場所、そのような栄光ある伝統を継承する方向に是非向かってもらいたいと願っています。

Contributed by Taketeru Kuramoto, Received October 21, 2003, Revised version received October 28, 2003.

©2003 筑波大学生物学類