つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2003) 2: 134-135.

特集:卒業・退官 最終講義

方法の問題:デカルト「方法序説」ノート

林 一六 (筑波大学 生物科学系)

 私はその時々の具体的な研究テーマとは別に、次のようなことがいつも気にかかっていた。それはこの世の中で「研究するという仕事」がなぜ存在可能なのか、ということと、もう一つは、現在の自分の研究テーマにはどんな「意味」があるのかということであった。前者の問いは、社会とは何か、大学とは何かという問いに発展する可能性を予感させて簡単には答えられないものである。二番目の問題には、このテーマが現在、学会で問題になっているとか、人々の生活にこれこれの役に立つ、と一応答えることができる。しかし、なぜそれが学会で重要とされているかという問いは依然として残るし、ある研究課題が現実の暮らしのどんな役に立つかはすぐには思い浮かばないテーマもあった。

 最初の問いについては、学問が職業として成立した時代の歴史的背景を知ることによってヒントが得られるかもしれないものである。二番目の問題は20世紀の初頭にポアンカレによってとりあげられ、彼の考えに多く研究者が賛同し、20世紀における科学研究の暗黙の前提とされてきた。

デカルトとその時代

 バナールは「歴史における科学」の中で次のように述べている。「・・・ベイコンとデカルト、この二大人物は中世科学と近代科学との転回点に立っていた」。すなわち、現代にまで続いている科学の源はデカルトの「方法序説」が書かれた1637年頃の時代、17世紀中葉に始まるといってもよいだろう。方法序説の正式なタイトルは「理性を正しく導き、学問において真理を探究するための話し。加えて、その方法の試みである屈折光学、気象学、幾何学」という題だそうである。デカルトはここで、「光学、気象学、幾何学という自然科学における真理を探求するための方法」を論じている。しかし、この本はすぐには出版されなかったらしい。というのは、「・・・これらの真理の主なものは、考えるところあって発表を控えている論文のなかで説明しようと努めた・・」「・・そのためには、学者たちのあいだで論争中の多くの問題について語ることがいま問題になってくる。わたしはこれらの学者たちといざこざを起こしたくないので、そうしたことは差し控え、ただ概括的にこれらの問題がどんなものかを述べるにとどめるほうがよいと思う」。と述べている。

 この論文というは「世界論」と題され、上記の自然科学の領域を扱ったものであったが、発表を控えた理由の一つはガリレオの事件であった。また、「論争中の多くの問題」というのはコペルニクスの地動説のことであるとされている。このことから、17世紀の中葉における科学の置かれた状況をうかがい知ることができる。このころ、ガリレオは「二大世界体系についての対話(天文対話)」によってコペルニクスの説を支持したとして、ローマで裁判を受けていた。それが、遠くはなれたオランダで思索をつづけていたデカルトの耳にも聞こえていたのである。しかし、このことによってガリレオが教会と闘っていたと判断するのは皮相な見方のように思える。ガリレオは正式な結婚をしない女性との間に生まれた3人の子供のうち女の子2人を修道院にいれていたのである。このころのヨーロッパは30年戦争など騒乱の時代であったが、この時代に勃興した市民階級は科学者を雇って科学技術を用いて産業をおこした。バナールは前記の本で「この時代は科学を実際的目的に使うために組織的かつ意識的な努力がはらわれた最初の時期」であったと述べている。このころ科学の学会がいくつもつくられ、ロンドンのロイヤル・ソサイテーが結成されたのは1662年であった。ここに職業としての科学者がうまれたと考えられるが、そのころデカルトは光学、気象学、数学などの純粋な学問に努力をかたむけていた。

還元主義と機械論

 さて、デカルトは方法序説のなかで真理に導く方法として次のように述べている。

 第一は、わたしが明証的に真であると認めるものでなければどんなことも真として受け入れないこと。

 第二は、わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよく解くために必要なだけの小部分に分割すること。

 第三は、わたしの思考を順序にしたがって導くこと。そこではもっとも単純でもっとも認識しやすいものから始めて、少しずつ、階段を上るようにして、もっとも複雑なものの認識まで昇っていき、自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間にさえも順序を想定してすすむこと。

 そして最後は、すべての場合に、完全な枚挙を全体にわたる見通しをして、なにもみおとさなかったと確信すること。

 上に述べられている二番目の方法がその後先鋭化され、洗練されて現代科学にまで受け継がれている要素還元論であり、「小部分に分割すること」は現在ではDNAや素粒子にまで分割されてきている。そこから思考の順序にしたがって複雑なものの認識にいたろうとする方法が科学の一般的な方法として採用されてきている。

 デカルトは当時、生物の解剖も行っていて、肉屋で動物の器官を買ってきて自ら解剖したとも言われている。そのような観察から、心臓の構造と血液の循環について説明したのち「・・わたしがいま説明した運動は、心臓のなかで見て確かめることができる諸器官のただの配置、指で感じることができる熱、実験によって知ることができる血液の性質から、必然的に帰結するのであり、それは時計の運動が、分銅と歯車の力、位置、形から生まれる結果であるのと同じだということである」と書いている。これが、後にデカルトの機械論的見方といわれたものの一つである。

 こうしてみてくると、現代科学の哲学的基礎である機械論的還元主義が、デカルトの時代にうまれ、科学の方法として一般化されて、20世紀にいたるまで受け継がれてきたと考えてよいだろう。

 こうして、17世紀中ばに生まれた科学はその後の発展をとおして、現代文明を築き上げてきた。このとき、機械論的方法や技術が産業にとって有効であった。しかし、この科学方法論は同時に現代が抱える環境問題などさまざまな問題をその中に内在していたといえるだろう。

デカルトの「方法」のもう一つの面

 デカルトの「哲学」や「方法」をこの機械論的還元主義のみに限定するのは一面的であると思える。彼はアリストテレス、スコラ哲学を再検討するべく、それまで学んだ知識をいったん疑ったが、確実な基礎をもつものとして数学、特に幾何学と代数学を考えた。そして、すべての現象に存在する「比例」に着目した。比例というのは、関係のことであり、対象にかかわらず存在し、これによって「関係の絶対性」という概念が導かれる。

「・・これらの学科が、対象は異なっても、そこに見だされるさまざまな関係つまり比例だけを考察する点で一致することになるのをみて、こう考えた。これらの比例だけを一般的に検討するのがよい」。デカルトはこの「関係」が本質的なものであり、事物を構成している各部分をその成分に分解すると、関係性は消滅するということに気がついていた。この関係性は自然のもっているもう一つの面、すなわち「構造」または「システム」ともいうべき概念である。

「・・たとえ、神が最初はこの世界にカオスの形しか与えなかったと仮定しても、同時に神が、自然法則を設定し、自然がいつもそのように働くよう協力を与えさえするならば、・・つぎのように信じうるのである」。「純粋に物質的なものはすべて時間とともに、現在われわれが見るようなもになりえたのだろう」「そしてそれら物質的なものの本性は、このように少しずつ生成するのを見るほうが、全くできあがったものとしてのみ考える場合よりもはるかに把握しやすい」。最初に混沌と運動の規則をあたえると事物が関係をもちながら全体として形成されてくるというダイナミックな自然観で、きわめて現代的な自然観ということができる。デカルトの哲学にはこのような要素もあり、機械論的要素還元論だけがデカルトの哲学であるというのは一面だけを強調したものといわねばならない。

研究課題の意味を巡って  科学の方法と課題の意味づけの間は深いところでむすびついている。デカルトは「自然学にかんしていくつかの一般的知見を獲得し、それらをさまざまな特殊問題に試しはじめながら・・・これらを隠しておくことは、力の及ぶかぎり万人の一般的幸福をはかるべしという掟に照らして大きな罪をおかすことになる」と述べている。ここでは自らの研究を「万人の一般的幸福」に役立つためと考えているが、それがのちの人々によって、産業と結びついたときに「万人の一般的幸福」に役立つと考えられるようになった。

 それから250年後の1908年にポアンカレは「科学と方法」において次のようにのべている。「もし、(研究課題の)選択がただ気まぐれか、もしくは目前の実益によって決定されるほかないものならば、科学のための科学は存在しえない、したがって科学は存在しえない」。「科学者は実益あるが故に自然を研究するのではない。自然に愉悦を感ずればこそこれらを研究し、また自然が美しければこそこれに愉悦をかんずるのである。自然がうつくしくなかったならば、自然は労して知るだけの価値がないのである」。「科学者はこの美のために、おそらくは人間の将来の幸福のためよりもむしろこの美のためにこそ、長く苦しい研究に身をささげるのである」。20世紀初頭のポアンカレのこの意見に従って多くの科学者は研究活動を続けてきたが、その成果はこの世紀の産業の発展、すなわち実益に大きく貢献した。「科学のための科学」は、結果として実益に貢献するというパラドキシカルな結果となった。ところが、21世紀の初頭の現在は、「科学のための科学」にかわって「産業のための科学」が推奨される現状になっている。

 このあたりの事情について朝永振一郎は次のように述べている。「例えば、産業においてもある科学、ある技術の可能性があるとわかると、競争相手がそれを作っちゃうと競争に負けるという恐れから、どんなものでも作ってしまう。そしてしゃにむに作るから、公害もでるし自然破壊も起こる。そういう競争の連続で、企業はますます巨大なものになってくる。そういう事態になっている」。朝永はさらに「事実ながい目でみると、目さきの有益をねらったものよりも、こういう基礎的な研究ははるかに大きな意義をもつともいえる。なぜなら、人間の判断力はタカが知れているので、その浅知恵で有益と計量できるような有益さはタカが知れていて、長い歴史の中においてはじめてその位置づけができるような、一見無益なものこそ、はるかに巨大なものである」としている。

本稿を書くに当たって、デカルト著、谷川多佳子訳「方法序説」(ワイド版岩波文庫)、バナール著、鎮目恭夫・長野敬訳「歴史における科学」(みすず書房)、朝永振一郎著「朝永振一郎著作集」(みすず書房)、ポアンカレ著、吉田洋一訳「科学と方法」(岩波文庫)を用いた。

Contributed by Ichiroku Hayasi, Received February 17, 2003, Revised version received March 18, 2003.

©2003 筑波大学生物学類