つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2003) 2: 148-149.

特集:入学

入室の御作法

渡辺 守 (筑波大学 生物科学系)

 「先生、S先輩にこっぴどく怒られてしまいました。」 2年生になって研究室に出入りするようになったB君がぼやいている。聞くと、ノックをせずにこの研究室に入ったからだという。

 ちょうど、パソコンのOSがMS-DOSからWindowsに切り替わった頃であった。それまでは一つのアプリケーションを立ち上げると、原則として他の仕事を同時に立ち上げることが出来ず、いちいちアプリケーションを終了させて切り替えていたのが、両方立ち上げておいて、画面の切り替えですむようになったのである。しかも、ワープロや表計算の画面間で、クリップ機能を用いてデータのやりとりができ、ファイル管理も格段に楽になってきた。しかし別の意味で、この恩恵を最大限に活用していたのがウチの研究室の学生たちである。

 メモリ容量などで制限はあったものの、Windows上で複数のアプリケーションを立ち上げられるとしたら、複数のゲームを同時に立ち上げることも可能なはずである。とはいえ、今よりもOSが不安定な時代で、バグも比較にならないほど多かった。なにしろ、Windowsとはいいながら、MS-DOSの影を色濃く残している。MS-DOSと簡単なプログラムの知識があって、バッチファイルくらいは組めなければ、コンピューターが止まったときにお手上げとなってしまう。ケーブルがのたうっているコンピューター本体の後ろに手を回して、リセットボタンを押した回数なんて数え切れない程である。今のように、裏で走っているMS-DOSを知らなくても、Windowsの画面上の指示に従って、黙ってマウスをクリックしていれば、いつのまにかインストールが終わってしまうなんてことはありえない。したがって、ゲームソフトをインストールしたりファイル操作するのもコンピューターの勉強のうちと割り切って、早くパソコンに慣れてもらうのが先決と、目くじらを立ててはいなかったのである。

 パソコンにワープロや表計算だけでなく、ゲームソフトがインストールされるようになると、俄然、学生たちの目の色が変わってきた。普段、研究室になかなか来ない連中も、どこからかツテを頼って違法の臭いのムンムンする怪しげなゲームソフトを持ってきては、インストールして遊んでいる。MS-DOS上で走るソフトもまだ多く残っており、画面の解像度も低かった時代なので、ゲームの内容もグラフィックも、どれもカワイイものではあった。しかし研究室にボクがいない時、学生たちは昼も夜も徹夜でゲームに明け暮れていたこともあった(らしい)。とはいえ、データ整理や勉強もせずに、いつもゲームで遊んでいるのは問題であると、当人たちはそれなりに後ろめたく思っていた(らしい)。

 一時期、会議などの所用で席を外すと、研究室がゲーム大会で盛り上がったこともあるという。ところが、研究室へ戻ってきてドアの取っ手を回した途端、画面は表計算やワープロ、グラフ作成などに瞬時に切り替わっている。学生たちは「ウサギの耳」に磨きをかけていた。廊下を歩いてやって来る足音でボクを同定でき、入室するまでの時間を見切ることができたのである。ノックしないで研究室のドアを開けるのは、ボクと研究室の学生たちしかいない。フィールド調査へ行ったとき、セミやバッタ、コオロギなどの鳴き声を全く聞き分けられなかったくせに、足音ばかりでなく、ドアの取っ手をつかむ微妙な音で誰であるかを聞き分けられた学生もいた。そんなところへB君は、ノックもせずドアを開けてしまったのだ。油断していて泡を食ったS先輩は、ゲームを保存せずに終了させたばかりか、データ入力途中の表計算ソフトまで保存せずに終了してしまったそうである。

 「バカヤロー、おまえのおかげで、勝てそうだったのがやりなおしだ。おまけにデータまで消えちまったじゃないか。研究室へ入るときはだな、ノックしてから『先輩失礼します!』とでも言うんだ。」

 今、S先輩は実直な地方公務員、B君はコンピューター会社でバリバリのSEである。

Contributed by Mamoru Watanabe, Received April 16, 2003.

©2003 筑波大学生物学類