つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2003) 2: 160-161.

連続特集:菅平高原実験センター

菅平は心のふるさと

佐野 洋子 (中野耳鼻咽喉科医院)

 私は、1979年4月から翌80年3月にかけて、菅平高原実験センターの安藤先生のもとで卒業研究をした生物学類2期生です。

 千葉市の田舎に生まれ育った私は、幼少の頃から、生き物、特に昆虫が大好きだった。なかでもチョウが好きで、完全変態の不思議さや羽根の鱗粉の美しさに心奪われていた。

 今では住宅地となってしまった、自宅の裏は、当時は松林で、その向こうに明治大学誉田農場の山林と谷津田が広がっていた。松林では、春、ワラビやゼンマイが採れ、秋には様々なキノコや山栗が採れた。弟と裏山に出かけ、競い合って季節の恵みを採り、自分の見つけたキノコがお味噌汁の具になった時のあの嬉しさは、今でも忘れられない。

 谷津田には小さな泉がわき、メダカやフナやオタマジャクシ、ザリガニ、イモリ、タイコウチなど、多数の生き物が住んでいた。

 夏、誉田農場の山林は、クヌギやクリの木が多かったせいか、昆虫たちの楽園になった。毎年、夏休みが始まると、弟と二人で朝早くから昆虫採集に出かけ、「こんなに採ってしまったら、来年はもう採れなくなるかもしれない。」と子供心にも心配する程、クワガタやカブトやカナブンやゾウムシなどを、見つけ次第採集した。家で飼育し、その数を友人たちと競争するのが楽しみだった。

 生まれて初めて見た、アケビコノハの幼虫の不気味さ、アサギマダラの美しさ。今まで見たこともないような大きなこげ茶色の羽根を持ったガのようなものを見つけた時の胸の高鳴り。羽根を広げた時の鮮やかな紫色。それが日本の国蝶、オオムラサキだった事。図鑑でしか知らなかった虫を実際にこの目で見た時の驚きと喜びと興奮は、好奇心あふれる子供時代の、胸に染み入る出来事だった。

 こんな私の夢は、理科の先生になる事だった。小5の頃、「巨人の星」が大ブームで、「星飛雄馬が巨人の星をめざすなら、私は「理科の先生の星」をめざすぞ。」と、思った。母に理科の先生になるにはどうしたらいいかと尋ねた時、東京教育大学の事を知った。冬空にひときわ大きく輝くシリウスを、「東京教育大学の星」と決め、目標に向かって頑張る事を誓った。高2の時、東京教育大学は新治郡桜村に移転し、新構想の「筑波大学」として出発した。目標は「筑波大の星」となった。  そして、1976年4月、ついに初恋の大学に入学した。筑波大の3期生、生物学類としては2期生だった。当時の筑波大は、まだまだ開発途上で、至る所で杭打ち機の音が鳴り響き、英語のジョンソン先生が、「今日もシーカポン、シーカポンですね。」と、面白い日本語で表現した事をよく覚えている。

 1学と2学の間には林があり、そこを皆がよく通るので、自然と小道ができた。キジが飛び立ったりリスが出没したり、やがて小道は、「けもの道」と呼ばれるようになった。今ではすっかり建物が立ち並び、あの頃の面影を探す事は、残念ながらできないようだ。

 確か2年生の動物分類実習(芳賀先生)の時、菅平高原実験センターと昆虫発生学が専門の安藤先生の存在を初めて知った。ジャンプしたい位、嬉しかった。当時の私の関心は、チョウの鱗粉が蛹の間にどのようにして発生し、なぜあのように規則正しく美しく配列するのかという事だったので、安藤先生や芳賀先生の存在は、まさに貴重でありがたく、筑波大生である喜びを改めてかみしめた。

 3年生の夏に、憧れの安藤先生の集中講義「昆虫学」があり、今までのどの講義よりもドキドキワクワクして、「卒業研究は、絶対安藤先生につくぞ。」と決心した。そして、夏休みの昆虫学野外実習で、初めて菅平高原実験センターを訪れ、滞在する事になった。

 菅平での実習は、見るもの聞くもの全てが新鮮で楽しく、日中採集した昆虫を、夜、同定し、スケッチし、標本を作製した。菅平の昆虫の種類の多さに圧倒され、「全動物の4分の3は、昆虫類が占める。」という認識を新たにした。  標高1300mの地に位置しているため、とても涼しく、空気が澄んでいて、夜空は格別に素晴らしかった。無数の星々が輝き、友達と流れ星の数を競ったりした。宇宙の広大さと、その中の一つである地球と、その地球の菅平に今いる生物としての自分を、吸い込まれそうな星空を眺めながら、ひしひしと感じた。宇宙誕生から繰り返されてきた悠久の時の流れ、人類が歩んできた歴史、生物の生と死、これからの自分の未来など、次々に様々な感慨がわいてきて、世の中に多くの学問がある意味を悟ったような気がした。

 強烈な印象を残した野外実習も終わり、いよいよ卒業研究の指導教官を決める時期になった。雪の降る寒い1月のある日、私は友人たちと共に、菅平の安藤先生の研究室を訪ねた。鱗粉の発生に興味を持っている事を述べると、先生は、「布施さんは、結婚したいかい?鱗粉の発生を調べるには、少なくとも十年はかかると思った方がいい。もし結婚したいなら、私は別のテーマを勧めます。ハサミムシ目の胚子発生は、1967年以来新たな知見が得られていないので、不足を補う研究をしてみてはいかがかな。」とおっしゃいました。「結婚して自分の家庭を持ちたい。」と考えていた私は、潔く鱗粉の研究を諦め、ハサミムシの胚子発生を調べる事を決意した。

 1979年4月、菅平での卒研生活が始まった。研究材料を採集し、飼育し、産卵した卵を固定、各発生段階での実体顕微鏡による胚子の外部観察、切片作製による内部観察を行った。

 飼育中、私が最も心打たれたことは、体長わずか2cm足らずのハサミムシの母虫が、自ら産んだ卵(1回に40個〜80個、2〜3回産卵し、合計120個も産む場合もあった)を、毎日一つ一つ、大あごで挟んで卵表を掃除し、卵の位置を変え、寒い時は卵塊にし、暑い時はばらばらに散在させ、さらに1令幼虫が孵化してからも保護行動(危険が近づくと、幼虫を大あごでくわえて一ヶ所に集め、腹の下に隠す)を続けた事だ。孵化するまで、母虫は絶食状態だった。アルマンコブハサミムシの場合、母虫は孵化した幼虫の最初の餌となった。「こんなに小さな虫でも、母性というものがあるのか。我が子のために身を粉にして。」と、生物が持っている「本能と生きるための知恵」に、心底、感動した。

 そして、母虫が大事に育てている卵を固定しなければいけない状況にいる自分が、同じ♀として改めて再認識させられ、「ごめんね、あなたの大切な新しい命を犠牲にしてしまって。でも、この死を決して無駄にはさせないからね。」と、同性の母虫に心から陳謝した。

 安藤先生は、情熱の塊のような方で(今でも、勿論)、先生のお話で印象に残っている事は、「大学教官の使命は、三つあると思うんだよ。一つは自らの研究を一生懸命やる事。二つめは、後継者を育てる事。三つめは、地域や社会に貢献する事。」、「人間、生きていくには“愚直”という事が非常に大切だ。君達も、何事にも一途に、素直に情熱を傾けて打ち込んでいく事を忘れないでほしい。」等々。

 先生が学生の頃、コピー機もない時代に、日本に一冊しかない昆虫発生学の原本があった。先生はそれを、表紙から図表や原文、裏表紙に到るまで、全て筆写し、見事な本に仕上げた。原本が二つあるのではないかと見間違うばかりの、緻密で美しい、情熱と努力と気迫のこもった筆写本だった。まるで芸術品のようだった。見せて頂いた時、私は若き日の先生の志を痛感し涙が出た。そして先生の弟子になれた事を、心から嬉しく思った。

 卒業後、私は結婚し、出産・育児という、ハサミムシの母虫と同じ道を選んだ。「理科の先生になる」という夢は、教育実習で挫折したため諦め、子育てに専念した。

 毎秋、実験センターでは、「前口動物発生学セミナー」が、私達の卒業した年からずっと開催されています。安藤先生関係の弟子達が国内外から集まり、卒研生の中間発表や院生の研究発表、異分野に進んだ人達のお話など、先生方、先輩方、同輩、後輩、他大学の方々との交流が深まる、有意義なセミナーです。子育てが一段落した後、ささやかな社会貢献をしたいものだと考えている私にとって、この会に参加できる事は、大変幸せで光栄な事です。人間的繋がりを大切にし、社会貢献をめざす安藤先生の志は、当時院生だった町田先生に受け継がれ、菅平高原実験センターは、今後も国内外へと大きく飛躍して行く事でしょう。菅平は、私の大事な、心の故郷です。

 今年成人式を迎えた息子がまだお腹の中にいた頃、菅平を偲んで書いた拙詩を紹介して、筆を置きます。

 雨がふるふる からまつの並木に
 白く煙る坂道の ふもとに広がるレタス畑
 六月の細い細い雨は 温かい
 遠く連山を望めば 黒々として墨画の如し
 淡い緑の柔らかき葉に
 しとしとと 雨がふりかかる

 音もなく静かな午後の日に
 温かき雨は やむことなく降り続く
 何処かで不意に 鳥がなく
 名も知らぬ鳥の声
 ただ一羽 森閑とした林を飛び立つ
 なんと温かい雨 なんと目にしむ新緑

 いつしか夕暮れに 山の端に満月ぞ出づる
 きれぎれの村雲に 垣間見る北斗の星
 果て遠く 恋しき人ぞ暮らす

 いつか見た夜明けの白雲
 いつか話した有志たちの 多くを語った
 あの声も あの熱き眼差しも あの仕草も
 今はただ からまつの星空に よみがえる
 そしてまた 温かき雨の中で 生き続ける

Communicated by Yuzuru Oguma, Received February 25, 2003.

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