つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2003) 2: 190-191.

特集:動物生態学研究室の人々

生物学類時代(20年前を思い出して)

前田 仁 (近畿大学)

受験生諸君へ(自己紹介も兼ねて)

 私は黒潮洗う紀伊半島南端にある和歌山県立串本高校の出身です。海も山もとにかく自然には恵まれた土地で育ちました。高校卒業後現役で、山梨大学工学部電気工学科に入学しました。電気工学科を選んだ理由は、中学1年の時、電話級ハムアマチュア無線技師の国家資格を取得したからです。そのときの勉強で、電気というものも面白いと感じたからです。しかし実際に授業が始まってみて感じたのは、自分が本当に大学で学びたいと思っていたのは、これだったのだろうかという疑問です(物理化学大要の授業などは、まずベクトルを微分するところからはじまりました)。私は子供の頃から蝶が好きで、採集して標本を作ったり、雌に卵を産ませて幼虫を育てたりしていました。観察日記をつけたりして楽しい思い出があったので、よし大学では生物学を学び直そうと決心したのです。

 諸々の細かい事情は省略しますが、とにかく山梨大学を1年で中退し、東京で浪人生活を始めたのです。さて翌年、初めての試みである共通1次試験なるものが始まりました(1979年1月)。今のセンター試験にあたるものですが、5教科7科目すなわち理科2科目社会2科目の、1000点満点です。この共通1次試験により、国公立大学の受験機会が1回だけとなりました。さて私は何点だったかといいますと、811点でした(自己採点)。これは筑波の生物学類に入るには、十分な点数ではありましたが、筑波は2次試験の方が配点比率が高く、油断はなりませんでした。

 さて話はここからです。筑波大学受験の前日、下見のために大学を訪れました。その建物のきれいさに驚き、もっと早くこの大学を訪れていたなら、もっとやる気を出して勉強していたのになあと思いました。受験生の皆さんに言っておきたいのは、高3の夏休みには希望する大学に行って、大学生と一緒に学食で昼食をとり、そこで自分がここの大学の大学生となったときの具体的な自分の姿をイメージできるかどうか試してみることです。 生物学類に入学して

 私は受験科目が物理と化学でして、高校時代に生物はほとんど勉強していませんでした。しかし生物学類4年間を通して、特に困ることはありませんでした(入学後数研出版のチャート生物氓みましたが)。ただ今でも憶えているのは、1年次のとき、膵臓のプレパラートを見ながら、横の二人が「これはランゲルハンス島だねえ」と言っているのを聞いて、「おいそれはなんだ」と言ったのを覚えています。

 私は現在でも、生物学類4年間の講義ノート、講義資料、実験レポートを保存しています。この文章を書くにあたって、古いダンボール箱を開けて、それらをひっぱりだしてみてみました。いろいろ出てきました。まず1年次、専門科目で植物の講義があり、学期末試験で「やまゆりの花について書け」とあったので、「古来日本美人を形容するのにこういう言葉がある。“立てばシャクヤク座ればボタン、歩く姿はユリの花”」と答え、次に「やまのいもについて書け」とあったので「いかにイノシシが上手にやまのいもを掘るか」を力説し,次に「あやめについて書け」とあったので「いずれがあやめかきつばた」と書いたら、見事にCをいただきました。

 また、地球科学のレポートを書く際に担当教官が、「ひとのレポートを写すのであれば、3つ用意すること。2つや1つではどちらがどちらを写したのかも分かってしまう」と言っていました。課題は古生物学に関するものだったので、自分でも興味があり、図書館で一生懸命文献を調べて書きました。これはAをもらいましたが、のちに自然学類の者が貸してくれというので貸してやったら、紛失したというではありませんか。レポートというのは、そのひと個人が懸命になってつくった労作なのであり(お金で買うことのできない宝物)、こんなことをしてはいけません。

 ちなみに今手元にあるレポートをひとつ紹介しますと

1979年12月10日[分子模型]
課題その1:HGS模型を用いて、ブタンの構造模型を作成し、C―C結合を軸とする分子内回転を観察せよ。またブタンの分子内回転ポテンシャルエネルギー曲線を書け。

 筑波大学は総合大学です。学生寮では文科系の学生とも交流があります。話をしていると、我々理科系の者と全然違った発想をしている事に気付くことがありました。これも総合大学ならではの良い所だと思いました。

 1年次の講義で印象に残っているのは、三島次郎先生の「生態学からみた自然」です。土曜日の総合科目でしたが、分かりやすく面白かったですね。

 2年次になり、2学期から基礎生物実験が始まりました。これは講義と違って出席が厳しく、担当の先生は、午後1時になると実験室の入り口に鍵をしていました。当然遅刻者は叱られておりました。関連B(文科系科目)でとった、野田先生のロシア革命について著わした本「裏切られた革命」は、共産主義のみならず、人間と権力についての本質を衝いており、印象深いものでした。

 さて3年次になり、基礎生物学コース2クラス、医生物学コース、応用生物化学コース、環境生物学コースに分かれました。私は基礎生物学コースに進んだのですが、クラス担任はずっと1年次から猪川倫好先生でした。ここから本格的な専門科目を履修するようになりました。印象に残っている科目をいくつか挙げていきます。まず柳沢嘉一郎先生の「分子遺伝学」です。これは朝8時40分から始まるにもかかわらず、1度も遅刻欠席することなく出席しました。また、柳沢先生が授業中に紹介された、ワトソンとクリックの2重螺旋モデルの原文(Natureに掲載)を友達3人で訳したのを憶えています。次に関口晃一先生の「動物系統分類学」です。先生はたくさんのスライドを用意してくれていて、見ていて楽しいものでした。「専門外国語」は猪川先生担当で、Scienceに載った‘How Cells Make ATP’by Peter C. Hinkle and Richard E. McCarty でした。要するに‘chemiosmotic theory’(化学浸透説)のことなのですが、クラス約20人が悪戦苦闘して訳していたところ、誰かがその日本語版を見つけてきて、ぐっと楽になりました。3学期に藤井宏一先生による「生物統計学」の授業があり、分かり易く丁寧な授業でした。受講していて思ったのは、数学というものを完璧に理解していないと、ああはいかないという事です。あと渡邊良雄先生の「免疫学」では、マウスに抗原を再注入することを‘追っかけリーチ’と言っていたり、久しぶりに「生物物理」の授業に出たら、内藤豊先生にじろりと睨まれたり(尚その後、先生とは一緒に筑波山に蝶の採集に行く機会がありましたが)、渡辺浩先生が、ミダレキクイタボヤを発見したときの一服はうまかった、といったような断片的な事を憶えています。実験では細胞学実験と発生学実験が印象に残っています。細胞学実験氓ナは内宮博文先生が、細胞学実験では田仲可昌先生が担当してくれました。田仲先生の「DNAの抽出」実験は、後に私が高校の生物の授業を受け持ったときに、この実験を披露して、生徒達に好評でした。皆顕微鏡を一生懸命覗いていました。発生学実験は平林民雄先生が担当で、ニワトリの卵の発生を観察し、脳のタンパク組成を調べる為、1次元ゲル電気泳動、2次元ゲル電気泳動を行いました。

4年次になって

 3年次から4年次になるときに、卒業研究のために研究室を選びます。そのとき基準になるのは、3年次の専門科目で学んだ授業で、興味を惹かれたものを選ぶのが普通です。私の場合、分子遺伝学も好きだったし、その他いろいろはっきり言ってなんでも良かったのです。ただ山梨大学時代に知り合った北原正彦先輩(筑波大学修士課程環境科学研究科修了、現:山梨県環境科学研究所)が、藤井宏一先生の門下生で先生の事を教えてくれまして、先生は京都大学卒業後アメリカで11年も過ごし、その間Ph.Dも取り、アメリカの大学で教鞭も取られていたんだよと教えてくれたのです。そこに私は魅力を感じ、藤井研に決めました。もちろん昆虫は好きでしたし、生態学も好きでした。

 話は少し戻りますが、3年次に及川武久先生の「生物環境物理学」を受講しました。自分で書いたノートが残っているところをみると、ちゃんと出席していたようです。そのときの授業での及川先生との質疑応答や、研究室での藤井先生とのやりとりを通して、‘世の中にはこんなに頭の切れる人がいるものなんだなあ’とほとほと感心してしまいました。これは両先生の数学的物理学的才能に負うものだと思います。

 卒業研究は寄生蜂の一種が材料でした。はや1年が経ち、卒研発表の練習をしていたときのことです。議論がいろいろと煮詰まってきて‘サイエンスとは何か’という話になりました。藤井先生が、‘サイエンスとはXXである’とおっしゃったとき、感動のあまり背中を電流がズキッと走るのを覚えました。その瞬間‘この先生から学ぶべき事の90%以上は、今この瞬間に学んだのではなかろうか’と思いました。さて学生諸君、‘サイエンスとはXXである’の‘XX’は自分で考えてみてください。

最後に

 私は現在和歌山県那智勝浦町那智山の原始林(熊野那智大社所有)に於いて、蝶群集の調査を継続しています。始めてもう10年以上になります。これはひとえに藤井先生、北原先輩の薫陶のおかげだと思っています。

 社会に出て思うのは、学問における師弟関係というのは、仕事では得がたい、実に良い人間関係だということです。

 私の友人の有馬俊幸君(よく一緒に蝶の採集に行きました 現:中国電力)が、広島大学の大学院に進学しましたが、向こうで‘筑波の生物を出たなんてすごい’といわれたそうです。私も筑波大を卒業して、他大学出身のひとの話と比較して、あらためてその良さが実感できました。実験設備といい教授陣の素晴らしさといい、どこの大学にもひけをとりません。1年に1度位恩師の藤井先生に会いがてら、筑波大を訪問していますが、なつかしさとともに、筑波大学(学問の府として)の発展を心から喜んでいます。

Communicated by Koichi Fujii, Received April 30, 2003.

©2003 筑波大学生物学類