つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2003) 2: 28-29.

最も基礎的な学問は最も応用的である

渡辺  守 (筑波大学 生物科学系)

 我が国の自然科学の中で、生物学ほど内外の偏見によってゆがめられている学問はないかもしれない。かつては、生物学と聞いただけで「天皇陛下の学問」と揶揄されて、「お金にならないもの」であり「殿様芸」であり、「浮世離れして象牙の塔の中の学問」と見なされた時代があった。私が大学に入学した頃も、合格のお祝いよりも「金の取れない学科に入って何をしようと考えているんだ」というのが一部の高校教員の評価だったのである。白状すると、私自身、高校時代までは、生物学というのは「白衣を着て!」実験室の中で顕微鏡を覗き、試験管を振る学問であり、今のように、フィールドで泥臭く生き物の数を数えるなんて想像もしていなかった。

 広い意味の生態学も、内外の偏見の多い分野である。特に「チョウチョやトンボの生態学」と聞くと、たいていの人はニタリと笑う。子供の「夏休みの自由研究」に毛の生えた研究とか、「いい年になっても昆虫採集を行なっているマニア」と見られるらしい。確かに、私より上の世代の「生物学者」は「元」昆虫少年が多かったようで、ムシの名前は私など及びもつかないほどよくご存じである。

 我が国では、野外の蝶類や蜻蛉目についての専門の研究者は少なく、アマチュアが多い。実は、世界的に見ても、 これらの昆虫の生態学の研究者は多くない。特に開発途上国の大学や研究機関に属する研究者は「お雇い欧米人」を除けば皆無といえる。先進国に経済的に追いつくことが至上命令の国々では、このような「実生活にとって役立たない」分類群の基礎的な研究に割く財源も人材も、そして「心」の余裕さえないからにちがいない。しかし一方、欧米の研究者は、生物系の学問の世界の中でチョウチョやトンボの研究を一定の地位に保つことに成功してきた。もちろん、欧米の子供たちは昆虫採集などやったことがなく興味もないので、チョウチョやトンボが子供のものであるという偏見は概して少ない。アメリカ・スタンフォード大学のEhrlichは「害虫の研究は“今”の学問であり、蝶の研究は未来を洞察する学問である」と述べ、実際、その中から、生物学の発展の基礎となった重要な発見や考え方が数多く発展したのである。

 蝶類の成虫の個体群動態に関する研究方法は、野外に生息する他の昆虫類の個体群動態の研究に先鞭を付けたものが少なくない。たとえば、1930年代のイギリスにおいて、ヒースの草地に生息するシジミチョウの総個体数を推定するために行なわれた標識再捕獲調査で、初めて翅に個体識別番号を書くことが考案され、さらにその結果を解析するために開発された三角格子法という統計解析方法は、Jolly法が1965年に提案されるまでの間、野外個体群の個体数推定方法の定番のひとつとなっていた。今では、小さな野外個体群ならば、種々の工夫によって個体識別を行なって「捕獲−放逐−再捕獲」という作業を行ない、大きな個体群の場合は「グループマーキング法」を採用するのが、研究の第1歩となっている。

 作物などに経済的被害を及ぼすほど高密度になる害虫個体群の動態と比較するために、「低密度個体群」の維持制御機構の解明というアイディアは、蝶類の個体群動態の解析結果の一部が貢献している。「生活史戦略」の重要性も、蝶類の幼虫の生命表解析などの研究結果が参考にされた。地球上のほぼすべての昆虫類が、増えもせず、絶滅もしないで生息している理由は、異常に大発生を繰り返すような害虫の研究だけからは得られない。しかも、蝶類の場合、 成虫時代における翅の模様の擬態などといった「食う−食われる」の関係や産卵場所選択、幼虫時代の食草選択との関係から、相互進化の絶好の研究対象となってきた。特に、DNAを直接扱う研究が簡単にはできなかったほんの十数年前までは、成虫の翅の模様の変異こそ野外での集団生物学の研究に適しているとEhrlichらの研究チームは主張し、 ヒョウモンモドキの一種, Euphydryas editha,を中心とした一連の集団生物学的研究が推進されたのである。

 野外に生息する蜻蛉目の生態学的研究は蝶類よりも遅れている。幼虫時代を水中で過ごし、成虫になると空中生活をするこれらのムシは、幼虫と成虫があたかも別種であるかのように極端に異なった生活をしているからであった。 しかも、羽化直後の性的に未熟な時期の生活場所は水辺から離れていて、性的に成熟してから繁殖場所である水辺で人の目に触れるようになるのが普通なので、成虫時代も2種類の生活様式をもっている種が多いのである。しかし標識再捕獲調査や生息場所の精査が進んだ結果、 蜻蛉目こそが自然環境の指標として有効であることがわかってきた。従来の水環境の指標であった水生昆虫の大部分 の種は、生活史のほとんどすべてを水中で過ごすので、水質の汚濁自体の指標としては有効であるものの、集水域 を含めた複合的な環境指標とはなり得ないからである。しかしこのような応用面の研究はまだ成熟していない。その結果、一部の「トンボ池」や「ビオトープ」 の創成活動は、それぞれの種の生活史戦略の重要性に気付かずに、どんな種であろうとも「トンボさえ飛んで来れば成功」という状況となってしまっている。

 昆虫の配偶行動に関する研究は、この30年ほどの間に、行動の解発因の解析から行動の意味・役割の解析へと変化してきた。この様な研究の流れは遺伝子の生残を中心として考える社会生物学(≒行動生態学)の台頭と流布に一 致し、雌の子孫に与える投資量は雄よりも圧倒的に多いと信じられている一般則が出発点である。いうまでもなく、ひとつの産下卵とひとつの精子を比べれば、物質量は卵の方がはるかに大きい。したがって、卵の生産コストは精子と比べれば大変高く限りがあるので、雌の最大の関心事は、生涯の総産下卵数の可能な限りの増加であるといえる。 といって、雌は単に卵を体外に放出したらよいわけではなく、その卵が無事に育って成虫となり、次の子孫を産んでもらわねばならない。卵や幼虫の保護をしない種(蝶類や蜻蛉目のほとんどの種はこれに含まれる)であるならば、どのような場所にどのような方法で産卵するかは雌の自己責任かもしれない。しかし、産下した卵が健全に発育できるような「良い」遺伝子をもつ精子の獲得は、雄という相手あってのことである。雌雄の配偶行動とは、雌がより良い遺伝子をもつ雄を見つけようと努力した進化の結果といえよう。

 雄が雌と決定的に異なるのは、精子が羽化後も連続的に生産可能という点である。しかもこの精子は、量産してもエネルギー的にはコストがほとんどかからないばかりか、雄の体内で精子は枯渇しないので、雄はいついかなる時でも雌と交尾できると考えられてきた。この前提で野外における蝶類の行動を見ると、1頭の雌に何頭もの雄がよってたかって求愛するのは理にかなっている。この時、雌は交尾拒否姿勢などで交尾をきっぱりと拒否すると、雄はおと なしく引き下がってしまう。ある種の蝶類では、1旦交尾した雌には2度と交尾できそうもない「交尾栓」というものが付けられている。このような観察により、雌は貞淑で生涯に1回しか交尾せず、雄は浮気者で何頭もの雌と交尾を試みていると信じられていた。しかし、雌も一生の間に何回も交尾していたのである。この雌の「多回交尾」はアメリカで1960年代に発見され、我が国では1980年代になってからようやく認知された。多回交尾した雌の体内の交尾嚢には交尾回数に対応した数の精包が押し込まれている。雌はその精包を吸収して自分の体内の栄養や卵成熟に用いていることも明らかにされた。雌にとっては、幼虫時代の食草と成虫時代の花蜜に加えて第3の餌=雄の注入物質があったのである。

 蜻蛉目の雌が「多回交尾」するのは、水辺で1日観察すればすぐに理解できる。雌がどんなにた くさん卵を産んでも、1回の交尾で多数の精子が常に注入されているなら、雌の交尾嚢は精子で溢れんばかりになっ てしまうかもしれない。1970年代になって、蜻蛉目の雄のペニスの先には1本の鞭毛があり、交尾中、雄はこれを使って雌の交尾嚢内に溜まっていた精子を掻き出して、それから自らの精子を注入していることが明らかにされた。 精子置換という。これによって、ようやく、なぜトンボがタンデム(連結態、または「尾つながり」)で飛ぶのかが理解できたのである。交尾した雌を手放すと、他の雄にとられて再交尾され、せっかく注入した自分の精子が捨てられてしまうからである。

 蝶類における精包の押し込みや蜻蛉目の精子置換の発見は、昆虫類における両性の複数回交尾の機能と意義の解明を進め、性淘汰や包括適応度から見た進化生物学の発展に大きく寄与した。また、雌の多回交尾の機能については、不妊化雄放飼などによる害虫防除(根絶)などの応用面にも貢献している。かつて、ウリミバエの根絶計画を推進した伊藤は「最も基礎的な研究は最も応用的である」と、害虫防除といえども基礎的研究が重要であることを主張した。これまでの蝶類や蜻蛉目の研究結果は、進化生物学の方面にも、自然環境保全の方面にも、また、害虫防除の方面にもつながる基礎的データや考え方を提出してきたといえる。とはいえ、蝶類や蜻蛉目の研究者の絶対数が特に我が国では格別に不足している。これでは、どんなに魅力的なアイディアが出てきても研究は発展しない。偏見を排除し、基礎的な研究の役割を理解できる生物学を普及させる必要があると我が身に言い聞かせるこの頃である。

Contributed by Mamoru Watanabe, Received January 28, 2003.

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