つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2003) 2: 32-33.

長生きする

牧岡 俊樹 (元 筑波大学 生物科学系)

 長生きの秘訣は早寝早起きだという。適度な運動だともいう。腹八分目にかぎるともいう。他にもまだたくさんの長生きによいという方法があって、それぞれにもっともなような理屈がある。何がよかったのか、近年の統計によれば、日本人の平均寿命は世界一長くなったという。寿命の延長が必ずしも幸福の延長を意味しないのが人生の悲しみの1つではあろうが、それでもなお生物個体の本能としてわれわれはやはり長生きを希望し、そのための方法に関心をもつ。しかし、世に伝わる多様な長生法の中のどれが本当に有効なのかを知ることは容易ではない。ことにそれらの長生法の多くは、人類の平均寿命が現在よりもよほど短かかった時代に考え出されたものであることを思えばなおさらである。

 長寿の人から直接その秘訣を聴くことは、手っとり早くもあり、現実に長寿のモデルである本人が言うのだからという説得力もあろう。だが問題は、現在長生きしている人が、自身の長寿の原因を正しく理解しているかどうかである。たとえば、20年来寒中水泳を欠かさないのが私の長寿の秘訣ですと断言されたとしても、それを信じて鉢巻きをし、扇子を片手に真冬の水中にとびこむかとなると、誰しも多少のためらいを感じるであろうが、それは彼の長寿が寒中水泳のゆえになのか、あるいは寒中水泳にもかかわらずなのか、つまり寒中水泳と長寿との因果関係 が明確でないと感じるからであり、また仮に寒中水泳が彼に長寿をもたらしたのが確かだとしても、自分にも同じ く長寿をもたらすかどうか、つまりこのことの一般性が明らかでないと思うからであろう。

 なぜこのことの因果関係や一般性が明らかにできないか?

 それは1つには、これが歴史に属することだからである。われわれは一方向的な時の流れの中にいて過去に戻ることができないので、20年前に彼が寒中水泳を始めなかったとしたら今よりも短命であったかどうかを知ることができない。また今1つには、これが人間に関することだからである。20年前の彼と同じ年齢の、同じような健康状態の人をたくさん集めて来てそれを2群に分け、20年の間、一方の群の人たちには寒中水泳を決して欠かさないように強制し、他方の群の人たちには寒中水泳を決してしないように強制し、しかもそれ以外の生活は両群の人たちすべてが厳密に同じであるように強制しておいて、20年後の両群の生存者数の間に有意の差があるかどうかといった実験をすることは、昔の奴隷制の時代でさえも困難で(注1)、まして現在の、人権尊重を看板とする多くの人間社会の中では許されないであろう。 (注1:奴隷制の社会ではこのような実験を始めることは十分に可能であったと思われる。だがこのような実験を必要とした専制的権力者の余命はおそらく実験開始から20年には届かず、ゆえに実験の完了はよほど困難であっただろう。)

 人間ではできない実験を他の動物を使ってするのが動物実験である。人類は他の多くの動物の毛を刈り皮をはぎ肉を食べて繁栄してきたが、そのほかに動物実験もしてきた。ヒトと他の動物とでは形や機能が同じではないから、動物実験ですべてがすむわけではないが、現状を見ると、動物実験の成果は人間の生活のありとあらゆるところに及んでいるといっても過言ではない。医薬品の効果や副作用、食品添加物や毒物、環境汚染物質、放射線などの許容量、交通機関の走行や飛行の安全性と事故の際の傷害の程度、さらには生物化学兵器や核兵器その他の兵器や処刑具や拷問具などの効力の検定も、そのどこかの段階は動物実験によって行なわれている。

 長寿法の探究にももちろん動物実験が不可欠である。長寿の極致ともいうべき不老不死は人類の究極の夢の1つで、古来多くの人がその方法を研究したとされており、さまざまな方法が伝えられている。それらには呼吸法、運動法、栄養法、服薬法などがあり、寒中水泳は運動法の中でもかなり特殊なものであろう。

 これらの方法を現在の目で見れば、呼吸法、運動法、栄養法はいずれも、その時点での良好な健康状態をなるべく長く維持することを目的とするもので、老化や死を積極的に阻止しようとするものではない。たとえば太極拳という拳法を応用した体操は中国各地で人気があるようで、早朝の公園などに老人たちが集まってゆったりと体操をしている映像を見ることがあるが、毎年新しく老境に入ってこの体操に参加する人は少なくない筈であるのに、同じ公園の何年か後の映像でもやはり同じ位の人数が同じように体操をしているのは、参加するのと同じ位の人数がやめていくのだろう。期待する効果が得られなくてやめる のであれば、新しく参加する人がある筈はないから、効果はたしかにあるのだろう。だがそれは、「太極拳ができる 間は太極拳ができる程度の健康状態が維持できる」という程度の効果で、健康維持の効果ではあっても不老不死の効果とは別のものであるのだろう。

 とすれば、残る服薬法のみが、特別に調製された薬を服用することによって、老化および死を積極的に抑制しよ うとする方法である。問題は、どのような薬を服み、それによってどのような効果が得られるかということに尽きるが、それらの薬の効果の検定には、動物実験が重要な役割を果たしたものと信じられるのである。

 不老不死の薬の効き目を確かめる方法とはいったいどのようなものであろうか?不老の効果を確かめるには長い時間がかかり、簡単に結論は出ないであろうから、むしろ不死の方が確かめやすい。不死ということは、生物体と しての物質交代やエネルギー交代がいつまでも正常な状態に保たれ、いかなる外部的あるいは内部的障害によっても全く影響を受けないか、一時的に影響を受けても、それがまもなく完全に回復できることを意味しているのであろうから、これはそのまま不老ということでもあると思われる。そもそも老化とはゆるやかな死への傾斜であり、死に至らぬ老化とは、排尿に至らぬ尿意のようなもので、夢の中ではともかく現実にはあり得ぬものである(注2)。それに万が一、不老でない不死というものがもしあったとしても、そんなものを希望する者はこの世に一人たりともあろうとは思えぬ。ゆえにここでは不死とはすなわち不老であり、したがって不死を証明すれば同時に不老も証明されるものとしよう。 (注2:もしも夢の中で排尿に至るとすると、それは夜尿という現実の事態となるのである。また、前立腺肥大によ る排尿困難という症例もあるが、これはたとえ困難ではあっても出ないわけではないので、ここでは考慮しないも のとする)

 さて、それではどのようにして不死を証明できるのであろうか?  いささか乱暴ではあるが、最も簡単でしかも証明として完璧なのは殺してみることである。殺してみても死ななければ、まちがいなく不死の体になったと言えるであろう。だがこればかりはまさか自分の体で確かめるわけにはいかない。かといって、他人の体でもやはり無理があるだろう。こんな実験の材料に使ってやりたいと思うほどの相手とは、おそらく極悪非道珍妙無類な人間のクズでありカスであり、かつは日頃のうらみつらみが重なりに重なって憎さも憎く、殺してもなおあきたりないようなまことにけしからぬ奴に違いないであろうが、それでも、実験が失敗に終わってこのまことにけしからぬ奴が死んでしまえば、これはやはり殺人罪である。告発されて死刑と決まれば、まだ不死の体になっていない自分も死なねばならない。またもしも、仮にもしも実験が成功した場合には、このまことにけしからぬ奴が、自分よりも先に不死の体になってしまう。そうなってしまえばもはや手遅れで、殺すことも消すこともできないわけである。

 このように考えてみると、やはり自分や他人の体で確かめるのは適当でないことになり、そこで動物実験をすることになる。多くの先人たちも、ほぼこのような理由から、必ず動物実験をしたにちがいないのである。

 薬によって不死の体になろうとした人が使った実験動物とは、いったいどのようなものであろうか?もしもその実験がめでたく成功して不死の人ができたのであれば、実験動物にもまた不死のものができていなければならない。 また完全には成功しなかったが、あるところまで不死に近い能力を身につけたのだとすれば、やはり不死に近い実験動物が残されていると思われる。そのようなことを、動物界をつぶさに調べることによって確かめようとすることは、一見奇妙ではあろうが論理的には正当で、また実際に唯一の可能な方法であろうと思われる。

 動物界には、切っても切っても再生するプラナリアや、宇宙空間なみの高温や低温や高真空や放射線にも耐えるというクマムシの乾眠体や、すりつぶして濾過してばらばらの細胞にしても、再び集合して多細胞体にもどるカイメンなど、簡単には死なないものも少なくない。これらの動物こそ、不老不死の実験動物なのだろうか?

 だが一方、プラナリアは切り傷には強くても、水温が上昇するとすぐに死んでしまうし、クマムシも乾眠から醒めて水中で活動をはじめると、ちょっとした酸欠で簡単に死ぬ。カイメンも、ばらばらの細胞が集合する間は、水質や水温などの環境条件に敏感で、条件が悪くなれば死んでしまう。つまりこれらの動物も本質的にはごく普通の生物で、不老不死のような非生物的な能力をもつのとはどうも違うようである。

 さらにこれらの動物は人類とは系統的に遠く、体の構造も機能も人類とはずいぶん違う。不老不死の実験には、いくら昔のことでも、やはり系統的になるべくヒトに近いサル類か、せめてウサギやネズミを使ったのではないだろうか?そして現在の生物学の知る限り、それらの動物の中に不老不死に近い能力をもつものはいないようである。とすれば、必然的かつ論理的な結論として、不老不死に近い能力をもつ人間もまた存在しないことになるだろう。

 すべての生物個体が親から生まれ、また子を生んで、種族の遺伝子とその変異を伝えていく存在である以上、個体の生命の有限は避けられない。だが、勝手なようだが人間社会の中では、個人のある程度の長生きが望まれる。それは智恵や知識や技術のような個人の後天的な能力を次の世代に伝えるには、一瞬で伝わる遺伝によってではなく学習によって伝えるので効率が悪く、時間がかかるからである。人間の長生きへのあこがれには、人間特有のこのような事情がある。しかしヒトという生物種にとっては、個人の長生きは絶滅要因の1つとも言われる人口増加の一因でもある。  ──さてヒトという生物種はこの先長生きするのだろうか?と、この先あまり長生きしそうもないヒトの1個体は気をもんでみるのである。

Contributed by Toshiki Makioka, Received January 9, 2003, Revised version received February 14, 2003.

©2003 筑波大学生物学類