つくば生物ジャーナル Tsukuba Journal of Biology (2003) 2: 142-143.

特集:入学

平成15年度、生物学類新入生の皆さんへの祝辞

林 純一 (筑波大学 生物科学系、生物学類長)

 89名の生物学類新入生の皆さん入学おめでとう。皆さんは、センター入試や個別入試、面接試験など、本日の入学までは厳しい道のりがあったにもかかわらず、これまでのたゆまぬ努力と英知によって見事それを乗り越えた。これは本当に素晴らしいことで心からおめでとうと言いたい。

 今はおそらく長かった受験戦争から解放されてほっとしていることと思う。またほとんどの皆さんは、寮やアパート暮らしなので、そういう意味では親からも解放される。つまり、これまで学校や家庭で勉強や生活を厳しく強制されてきたものから一気に解放され、突然大きな自由を得ることになったわけだ。したがってこれからは勉強も生活も全て自分でコントロールしなければならなくなる。いつまでも開放感に浸りすぎると、この大転換期に自分のこれからの目標を見失って漂流し、退学せざるを得なくなる危険が待っている[1]。このような重大な危険を回避するための準備として、生物学類に入学した皆さんには、先ず高校まで大切にしてきた二つの神話を捨てていただきたい。

 第一は「偏差値神話」である。授業内容を鵜呑みにしてその内容を正確に理解し試験に備えるのではなく、なぜそういう知識が得られたのか、その論理的根拠は何かという点に重点をおき、疑問点を見つけ教官と議論する訓練をすることが重要なのである。サイエンスには正解が未だ見出せない無限のフロンティアが広がっている。すべての既成概念を一旦打ち消し、その是非を議論し、自分が本当に納得したものだけをどん欲に取り込んでほしい。大学で、そして社会に出てからも求められる真の学力とは、知識を鵜呑みにしその中から正解を見つける「偏差知的学力」だけではなく、探求心と創造力を駆使することにより自分で問題点とその解決策を見つける「問題発見解決型学力」なのである。4年生の卒業研究が究極のゴールであるが、そこでは自分で問題点とその解決策を見つけなければならない。このような学力こそ大学院に進学してもまた社会に出てからも要求される。是非この「問題発見解決型学力」をつけることを第一の目標にしていただきたい。

 第二に捨てるのは「優等生神話」である。これからは必ずしも良い成績を取る必要が無い。これまでと同じように大学でも良い成績を取って就職試験に備えることはしないでほしい。「4年間の全ての科目にAを取りました。次は何を勉強すればいいか教えて下さい。進路は決まっていません。」では本末転倒なのである。実は高校までとは違い、学習する範囲は無限にあり、授業などで提供できるのはそのごく一部なのである。そうだとすれば、全ての授業を100%理解することを目標にするというこれまでの価値観を捨てなければならない。したがって第二の目標はこの無限にある学習範囲の中から自分が専攻すべき分野を探しだし、その分野の学習にフォーカスを絞り先端領域に踏み込んで存分に自主学習することである。そしてその過程で自分の特性や個性を見つけ、それに磨きをかけ続けることある。もちろん多くの場合4年間で進路を決めるのは難しいかも知れない。だが、何もあわてる必要はない。決めるのは大学院へ進学してからでもよいが常のその意識はもち続けてほしい。そういう意味では大学での授業の意義は、単に学園生活にリズムと緊張感を与えることであり、自分の興味や能力がどの分野に向いているかを見つけ自主学習するためのきっかけや動機付けとしてこそ価値があり、それ以上のものではない。

 大学での授業の履修にはもう一つ別の意義がある。社会に出ると嫌なこと、興味がもてないこと、好きではないこともやらなければならない。そしてやりたいこととやるべきことが違う場合の方が多い。筑波大学生物学類に入学することができ、かつそのカリキュラムをきちんと最後まで履修できた卒業生を、だからこそ社会は高く評価してくれるのである。カリキュラムの中には興味をもてない分野の授業もあるかもしれないが、決して投げ出さずに履修を完了してほしい。やるべきことをやり通す力のあることを社会に対して証明するのが筑波大学生物学類の卒業証書なのだ[2]。もしかするとそのような科目の中から本当の興味が持てるものが見つかるかもしれないし、努力の過程で自分の隠れた能力が引き出されるかもしれない。仮におもしろい科目だけ取ってやりたいことをして過ごすことが許されたとしても、それは決して自分を成長に導いてはくれない。必ずしも良い成績を取る必要はないが、カリキュラム履修を完了することには集中してほしい。一つ歯車が遅く回ると、全体の歯車にも悪い影響を与える。できればほとんどの単位は1−2年で取ってしまい、3−4年は自由な時間を作るようにして、自主学習はもちろん、埋もれている自分の個性、興味、弱点等の発見に使うようお勧めする。

 さて、生物学類の教育目標は生物学の研究者と教育者の育成である。したがって、私たちのカリキュラムは手に職をつけること、すなわち「役に立つ技術」を身につけることを目的としていない。皆さんはもしかして、生物学類に入学して「役に立つ技術」を身につけずに社会に出ても大丈夫なのかという不安を持っているかも知れない。しかし、私たちの教育の最も重要なセールスポイントは「役に立つ技術」ではなく「科学する能力」を身につけることなのである。「科学する能力」は、皆さんが大学院に進学して研究者になったり教育者になるには、当然必須のものである。ところが、この「科学する能力」は何も研究者や教育者にだけ必要なのではなく、実はどのような職種にも必ず要求される極めて重要な能力なのである。これは、先に述べた「問題発見解決型学力」、つまり問題点を自ら見つけ、それを探求心や創造力を持って解決できる学力とまさに同等であり、21世紀の社会ではどのような職種であれこのような「科学する能力」がますます要求されるようになるはずである。したがって、生物学類で生物学を学んだのに、生物学とは直接関係のない職業に就く学生がいても決して不思議なことではないし、事実思いがけない職種で大活躍している生物学類卒業生はたくさんいる。即戦力となるような「役に立つ技術」を教育されたグループとはひと味違った魅力を皆さんは提示できるはずである。

 21世紀はまさに生物学の時代である。自然科学の学問分野の中でも生物学は近年ますますその中枢を占めるようになった。事実、ゲノムサイエンス、環境問題、遺伝子操作など、生物学の領域の目覚ましい伸展は、日々のニュースに事欠かない。生物学はまた、医学、獣医学、保健学、農学、水産学、薬学、工学などの応用分野の学問と一部競合するが、やはりその中枢に位置している。これらの応用分野は常に人の役に立つことが強いられる学問であるが、生物学の基本は生き物の構造と機能の美しさ、不思議さに対するわれわれの好奇心を重要視するピュアサイエンスなのである。最近、多くの企業は大学で即戦力となる教育を受けた学生よりも、むしろ基礎をしっかりと学び、「問題発見解決型学力」をしっかり教育された学生欲しがる傾向になりつつある。だからこそ、この生物学類でピュアサイエンスの醍醐味を存分に味わっていただきたいし、私たち教官は自信を持ってこの生物学類カリキュラムを皆さんに提供するのである。

 最近多くの大学の生物学科のカリキュラムは、改組によって基礎分野をリストラし売れ筋の人気ある分野のみを集めたコンビニ・カリキュラムに変身している。生物学類では本学類の長い伝統もつ基礎研究分野を大切にし、なおかつ遺伝子や環境分野、さらには医学農学との学際分野も精力的に取り入れた多様性あるカリキュラムを提供している。そしてそれは、多様性ある皆さんの個性や好奇心を十分に満足できるものであると信じている[3]。

 そうはいっても私たちはこのカリキュラムが完全なものであると思っているわけではない。もしカリキュラムの編成や授業内容などに問題点や改良点があれば、積極的にアピールしてほしい。むしろそのような問題を指摘してもらって学生と教官が議論を重ね、さらに充実した内容に柔軟性を持って変えていきたいと思っている。このような問題点は、当該教官、クラス担任、カリキュラム委員長、又は学類長に直接申し入れるかクラス連絡会などで十分に議論したいと思っている。また少しでも心や体の不調に気が付いた場合も、クラス担任や学類長に早めに遠慮なく相談してほしい。皆さんのプライバシーに十分に配慮した上で、できるだけの対応をするつもりである。

 私たちが提供するカリキュラムの履修は大学の目的のほんの一部で、自主学習はもちろん、それに加えて、サークル、アルバイト、ボランティア等の多様な活動とその経験を通して、自分の個性を豊かにし、楽しい充実した学園生活を送ってほしい。筑波大学の良さはそのチャンスがたくさんあるという点にある。4年という時間をどのように使うかはもちろん皆さんの自由だが、卒業までに本当に自分のやりたいこと、プロとしての自分の進路を求め続けるという本来の目標からはずれることがないように常に注意する必要がある。

 最後に、一つ誤解してほしくないのは、私たちの役割についてである。生物学類の担当の教員は高校までの教員と違い、学生の授業や生活指導だけが仕事ではなく、主な仕事はむしろ生物学の先端的研究を推進することにある。すでに確立された情報や知識をまとめて魅力ある授業や実験実習を行うことも大切な仕事の一つであるが、それよりもはるかに大切な仕事は、まだ誰も見つけていない生命現象を見つけその仕組みを解き明かすことである。クオリティーの高い研究を推進することで皆さんに魅力的な卒業研究テーマを提供し、ワクワクするような科学研究の醍醐味を味わってもらうこと、そしてその過程で皆さんに真の「問題発見解決型学力」をつけてもらうことが私たちの最も重大な教育任務なのである。

参考文献
  1. 林 純一 全員卒業を目指して! つくば生物ジャーナル 2:144-145, 2003.
  2. 林 純一 生物学類卒業生への祝辞 つくば生物ジャーナル 2:118-119, 2003.
  3. 林 純一 大学説明会学類長挨拶:筑波大学生物学類で学ぶ意義 つくば生物ジャーナル 1:62-63, 2002.
Contributed by Jun-Ichi Hayashi, Received April 18, 2003.

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